・パブロフのわんこ
・狙うと言う行為
・櫻、供花
・たった一つの冴えたやり方
・オズの魔法使い�T
・オズの魔法使い�U
・もしも明日が晴れたならば
・まったりしてるお話。
・Live wire hit cut
・お姉ちゃんな藤ねえる。
・日和、遠く
・感情ストレート
・カウンターパンチ
・君はライダー
・Hold your hand.
・夏の日の一欠けら
・blue new days.
・ジャック・イン・ザ・ボックス
・ごろごろわくり
・ささいなやまい
・祭後夜
パブロフのわんこ
自覚したのは一週間前ほどか。どうやら、ここ最近定期的――時間通りに飯を作っている。
朝食は六時、昼食は昼休みに食べるから元々定期的、夕食は七時半までには作り終え、その時間には食べ始めている。
それが続いたのが一ヶ月程だ。考えてみると、飯の時間は最近衛宮家に住み始めた彼女の腹時計と合致している。
「シロウ、何か私の顔に付いていますか?」
頬を触りながら俺に聞いてくる彼女――セイバー。
「いや、何もついてないよ」
ぼんやりと何気なく眺めていたら、流石に気付かれたらしい。ここら辺でセイバー観察は止める事にする。
眺めていて気付いた事が幾つかある。
まず一つ、セイバーは何にでも興味を示す。
聖杯戦争と言う下らない魔術の儀式に置いて聖杯と言うシステムに呼び出された彼女は、知識上では知っているものの、実物を見た事が無いと言う理由で何かを見つけては俺や遠坂に質問をする。
遠坂と言うのは彼女のマスターで、サーヴァントと言う役割を担っているセイバーの……まあ、名前通りご主人様なわけだけど、どう言うわけか立場はほぼ対等で、命令をする事ほとんどない。
遠坂のサーヴァント、所謂使い魔が何故うちに居るのかと言えば、うちの方が良いからと言う漠然とした理由らしい。なんとなくで居ると言うのも凄いと思うけど、多少いざこざがありつつも承諾した遠坂も凄いと言えば凄い。
本当のところを言えば霊脈である遠坂家の方がセイバーにとっては良いのだろうけど、気分的な問題に関してならうちの方が良いから問題無いらしい。
二つ目、セイバーは美味しい物が好き。
これは聖杯戦争の途中から薄々感づいてはいた。舌が肥えているのかどうなのかは分からないが、彼女は食べ物の味にとても敏感である。
隠し味に入れたものに気付くし、一工夫したものにも気付いてくれて作り手としては嬉しいんだけど、その代わり手を抜いた時にも敏感だ。時間が無いから簡単に済まそうとしたりした時には僅かに眉を顰めたりするから、最近は手が抜けない。
実際のところ、雰囲気が良いと言うよりは食べ物が美味しいからセイバーがうちに居るんじゃないかと仮説を立てているけど、怖くてセイバーには聞けないのが現状である。
三つ目、これはようやく気付いた事なのだが、彼女は秩序を護るように見えて、欲望に忠実であったりする。特に食欲には抗いがたいようだ。
食事時は話す事など無く、食べる事が全てであるとでも言うように食べ続ける。それだけならば良いのだが、セイバーは良く食べる。うちにはもう一人良く食べるのが居るから、多く作るのは結構大変だ。特にスパゲティやどんぶり物を作る時は注意が必要で、麺を茹でるだけで一苦労、ご飯を炊くだけで一苦労な状況だったりする。
そして、セイバーは執着心も強い。以前男は入るなと無言のプレッシャーを発するようなファンシーな店に遠坂、セイバー、俺で行った事があるが、その時に彼女が見つけたデフォルメされたライオンを見つけた時など、自分で自分を律している態度を取りながら、明らかに欲しいと言うオーラを出すのだ。値段とサイフを見比べてその時は買って上げたが、その内等身大の人形が欲しいなどと言い出さないか切実に心配している。
食費や衣服の代金は遠坂がセイバーの分を出してくれているから良いが、基本的にバイトだけで暮らしている俺にとっては、彼女がいつ何に手を出すか心配である。貧乏学生には暇など有り得ないのだ。
と、締め括ったところで、
「シロウ、お腹が空きました」
時計を見れば長針は一二を指し、短針は三を指している。
――ふむ。随分と高性能なお腹のようだ。
「今日のおやつは羊羹にしようか、栗羊羹があるんだ」
「あぁ、それはとても良い。甘い羊羹とお茶の渋みが合う時が幸せですね」
その時を想像しているような嬉しそうな顔で言うセイバーは幸せそうであり、邪魔する事は出来ない。
ひょっとしたら俺になついているような気がするのは美味しい物をくれる人だから、なんて思ったりしなくも無いが、幸福は良い事だ。
まぁ、なんて言うか学習能力がついているようなお腹に、定期的を刻みこんでしまったのは俺のような気がしなくも無いが、それはそれで悪くない。定期的に食事を取る事は悪い事じゃないのだから。
ただ惜しむらくは、不定期に食事を取ったとしても時間になるとお腹が減るセイバーは、ただの食いしん坊に思えることがあると言う事だろうか。
*
狙うと言う行為
速度は出来るならば出来るだけ早く、且つ常識的に。
角度は斜め上からで固定。バックスウィングは不必要、ただ突き出せば良い。
そうと決めたら直様に行動に移す。さあ、いざ行かん――――!
「あ、コレ美味しそう」
私の箸がそれを掴む前に、大河が横から箸を伸ばして掻っ攫っていく。それは上空から獲物を捕らえる為に急降下した鷹のように素早く、力強かった。
素晴らしいと言えるだろう。だが、それはそれ、これはこれと言う言葉があり、私が狙っていた物を取った事を許す事ではない。
「大河! それは私が狙っていた物です!」
「ふっふ〜ん、甘いわねセイバーちゃん。狙っているだけじゃダメなのよ」
大河は見せつける様に私が狙っていたから揚げを口に運び、極上の美酒を飲むように咀嚼する。
「あぁ……」
「セイバー、まだ沢山あるんだからそんな顔するなよ」
どのような顔をしていたと言うのかは想像に易い。恐らく、酷く情けない顔をしていたのだろう。だが、シロウの言う通り目の前の大皿にはまだ沢山から揚げがある。落ち込む必要は無いのだ。
私は意気揚々と箸を出し――またしても大河に獲物を取られた。
「大河!」
「次からは小分けにするか……」
*
櫻、供花
板張りの道場は冷たくて、正座をしていると膝からつま先まで熱を奪われる。
茶色の髪は揺れもせずただ真っ直ぐに額に落ち、首に流れ、眼は何も見ないように閉じている。
白い胴着は崩れも無く着られ、藍よりも僅かに黒い袴は皺を伸ばされてまるで鋪装されたばかりのアスファルトのよう。
彼女の横には一振りの竹刀。柄に汚れは無く、新品である事が分かる。
堅いと言えるほどにその雰囲気は緊迫感に満ちていて、難いと言えるほどにその雰囲気は鋭利である。
その雰囲気の中、静としていた彼女が――凛としていた彼女がついに動いた。
「――足痺れちゃって立てないよぅ」
それまで保たれていた雰囲気は瓦解して、情けないとも思える彼女の声が孤独な道場に響く。
そんな時彼女には助けてくれる人が居る。
今現在は出かけていて居ないが、その内帰ってくるのだろうと彼女は心待ちにしている。
「動けば痺れるけど動かなきゃもっと痺れるし、うーん……」
彼女は眉を逆さの八の字に見えるほど釣り上げ、口からメチャクチャな気合を発して――前のめりに倒れた。
「うわーん! 痛いよぅ、痛いよぅ、お姉ちゃん泣いちゃうよー!」
五月蝿く喚かれた言葉に反応する人は居なく、道場では尺取虫のような格好の彼女独り。
「……うぅぅ、士郎が帰ってきたらいっぱい文句言ってやるんだから」
そう言って彼にとっては迷惑極まりないやつあたりをする事を決め、彼女は痺れる足を伸ばして痺れを開放してから正座など今後はしないと決めた。
声は遥か遠く、牢のような格子窓の中には伸びた尺取虫が一人。
*
たった一つの冴えた自殺 り方
私は私を殺した。
方法なんて無い。ただ表情を殺して言葉を無くす、それだけで周囲と断絶する事が出来た。
手にする剣だけが私を裏切らない。私が如何に汚く穢れようと、剣だけは私と共に在ってくれた。
だから礼を言おう。他でもない、耐えてくれた剣と表情筋、それに声帯一体に。
胸を突き刺す剣は温か過ぎて冷たく濁った私を滅ぼしていく。低温は有限、高温は無限、勝ち目などありはしない。
剣から流れる熱が私を一瞬にして砕いた。
「läßt」
その声は耳朶に撃ち込まれるように響いて、私を無くす。開放と言う意味が込められたそれは、私を解放すると言う意味も込められていたのだろうか?
既に意識など擦れていた私にはそんな事考える余裕もなければ答えを知る時間も無く、ただ一つ分かったのはその声が余りにも悲哀だったと言うだけ。
敵を倒したと言うのに何故そのような声で言うのか私には分からなかった。
――気付かない。私の頬を伝った雫など無く、私が思った誰かへの感情も無い。
ならば、私の死を哀しむものなど居るはずは無く、この体は塵も残らず消える運命に従うだけ。
もしも、そう、もしも。何かの勘違いで私を殺した事を悔やむものが、哀しむものが居るのならば、私はその人を恨もう。
恨んで、恨み続けて、化けて出れば逅う事もあるだろうから言ってやらねばならない。――ありがとう、と。
死は辛くない。ただ、穢れた自分に我慢が出来なかった。
故に私は殺されると言う方法で自分を殺した。決して負け惜しみなどではない。
それが――
オズの魔法使い�T
最近、気になる事があるわけですが、それを言うべきか言うまいか、それさえ迷ってしまう私は弱いのだろうか。
いや違う。私が弱いのではなく、状況が悪い。ただでさえ私はシロウの家に居候させてもらって居るわけで、居候が家主に文句を言う事が可笑しいわけでして、決して私が弱くなったわけではない。それに私はサーヴァントであり、元とは言えマスターだったシロウに意見を言うなんてとてもじゃないけどするべき事ではない。
ですから私はワケではなく、自制をしているだけなのです。多分。
「セイバー。なにか言いたそうだって事は分かるんだけど、俺あんまり鋭い方じゃないから言ってくれないと分からない。不満があるんだったら言ってくれた方が助かるんだけど」
どうやら私の浅い自制などシロウにはお見通しのようで、私が言っても良いようにシロウは話しやすくしてくれた。それは大変ありがたい。ありがたいのだけど、私の理性、もしくは知性は言うべきではないと判断している。
「いえ、言うほどの事でもありませんので」
シロウは眉間に皺を寄せて、口をへの字に曲げる。どうやら私が不満に思っていることを考えているらしい。……あぁ、私は良いマスターを持った。元、だが。
何を言い訳がましい事で引き伸ばしていたのだろう。理性が、知性が言うべきではないなんて判断したなんて、そんな事馬鹿げている。単純に私が臆病だから、そのように思考を捻じ曲げただけではないか。対してシロウは私の不満を取り除こうと苦労をしている。ならば私は、協力すべきではないか。言い辛いことでも言って、状況を改善すべきではないか。
「どうやら私は、旅に出る前のライオンのようでした」
単純に臆病だと言いたくないから、妙な言いまわしを使う。少し前、凛に借りて読んだ女の子とかかしとブリキの人形とライオンの話からの引用。そうすると南の国の魔女は凛だろうか。
シロウにはこの言い回しは通用しないのか、僅かに首を傾げた。伝わらなくて良かったと思う反面、私が好きな話なので分かって欲しかったとも思う。
「最近、少し……その、体が重いような気がするのです」
竹刀を振るっても僅かに切れが鈍いと思うし、反応速度も思ったよりコンマ数秒ほど遅れているような気がする。それにその、凛から借りた服が僅かにキツイような気がする。他の魔術師からの攻撃かと思ったけど、魔力は感じないし第一対魔力に優れた私は並の魔術など受けつけない。だから、私は悩んでいる。
「あー、それは、うん。言い難いんだけど……その、太ったんじゃないか? セイバー、良く食べるし」
頭をスレッジ・ハンマーで思いっきり叩かれたような衝撃を感じた。戦士に、剣士に太ったと言う事など関係無いはずだし、むしろ適度に筋肉と脂肪をつけて居た方がウェイトの点で勝ると分かっている。それはメリット、利点なはずなのに、私はそれをデメリットだと感じている。
ああ、そうか。如何に私の剣術が力任せとは言え、あまり背の大きくない私は小回りを利かせて戦うスタイルを取る。だからではないか。いや、きっとそうだ。
「その、気にしなくて大丈夫だと思うよ。セイバー痩せてる方だし、少しぐらい太った方が――」
シロウが続けようとした言葉を遮り、同時に決意した。私は元の体型に戻ってみせると。
その晩の稽古で私は、いつもよりシロウを厳しく攻撃した。
*
オズの魔法使い�U
「シロウ、これはなんですか?」
そう私が聞くたび、凛は笑った目をこちらに向ける。一体なんだと言うのだろう、一生懸命私が世間に迎合しようとしているのに、その行動をするたびに凛は笑うのだ。
「凛、一体なんなのですかその目は。私が可笑しいとでも?」
口をへの字に曲げ、私は不快だと目一杯に表現して凛を見る。とは言え、サーヴァントがマスターに不敬をするわけにもいかないからそれが限界点だ。
「好奇心旺盛だなー、と思ってね。良いことよ」
私のスキル直感が発動せずとも分かる、それは嘘であると。まるで知りたがりの子供を見るような目で私を見ている。
「何ですか、私は脳の無いかかしだと? 旅に出る前のかかしだと言うのですか?」
「いいじゃない、かかし。脳を得て王様になるのよ。素敵じゃない」
「それは今の私が王の器ではないと遠回しに言っているのですか、それとも単に知恵足らずだと言っているのですか?」
不敬、その言葉を一時的に私の辞書から消す。それはさながら赤い字を赤いフィルムで隠すかのように。
「別にそんな事言ってないわよ。かかしは悪くないって言ってるだけ」
その目が笑うことで私は確信を得た。マスター。現冬木市管理人であらせられる我がマスター、私は貴方に反逆する。私がシロウを独占するからつまらないと言う感情を私へのからかいへと変化させるマスター、私は貴方を駆逐する。
唇を火の酒で滑らかに焙り、思考をついでに灼いて回転を上げる。心に剣と鞘を持てば理論武装完了、マスターの指先が人を呪うように、私の剣は何物をも薙ぎ倒し、私の鞘は何物をも防ぐ。
凛――心の準備は十分か? 目で問って返事は要らず、ただ私は駆逐するのみ。
「いや、良く分からないけど仲良くした方が俺は良いなーと思うんだけど」
シロウのその言葉が皮切りの合図。凛は笑った目を引き締め、私は火照った唇をなぞり、激突した――。
*
もしも明日が晴れたならば
雨が降っている。そりゃもう完璧に雨が降っている。曇天の空は今朝方から泣き出して今も号泣真っ最中だ。
今日は六月六日じゃないから可愛いコックさんが出来あがるわけでもなく、この辺に農家とダムがあるわけでもないから単に触れたら冷たい酸性雨が降っているだけ。気温こそ僅かに下がっているが、湿気が高いために快適とは言えない。
第一の悩みは洗濯が出来ないと言う事か。やけに所帯じみているとは思うけど、素直に思う事だから仕方が無い。二つ目の悩みは何故か家に居る遠坂が退屈だと喚いていること。夏休みの宿題なら最初の一週間で終えてしまったらしく、悠々と快適な夏休みを送っていらっしゃる。
TVモニターが映し出しているのは、竜巻で家が吹っ飛ばされたと言う、ものすごい少女が愛猫とちょっと特殊な仲間と旅に出るというミュージカル映画。俺は良く知らないんだけど、セイバーが気に入っているらしい。
二人が見ているから俺も眺めていると、どうやら終わったようである。セイバーは静かに拍手をしてから溜め息を漏らした。感動しているのかもしれない。
雨は相変わらず止む気配が無い。エクスカリバーで雨雲を吹き飛ばせば強制的に止むのだろうけど、そんなことに使うわけにもいかないし、と下らないことを考える。
「大丈夫でしょうか」
セイバーは神妙な様子で顎に手を当て、考えている。遠坂は英がの後の番組がつまらなかったのか、リモコンでチャンネルを忙しなく変えている。せんべいを齧りつつやってるところとか、かなり家に馴染んでるような気がする。
「大丈夫って、何がさ」
聞くと、神妙な顔のままセイバーは言った。竜巻が来たら少女の家のように吹き飛ぶんじゃないかと心配していたらしい。うん、笑ってしまうと切実に心配していたセイバーに失礼になるから、顔面の筋肉が引き攣りもしないように固定する。
「ん、じゃあてるてる坊主でも作ろうか。そうすれば雨も上がるかもしれないし」
部屋の隅にあったティッシュ箱を卓袱台に乗せ、ティッシュを二枚取りだして一枚をゴミのように丸め、もう一枚でそれを包みこむ。後はタコ糸か何かで縛ってマジックで顔を描けば完成。おまじないかジンクスかげんかつぎか、どこからの出典かも俺は分からないが、魔術的に言えばコレで雨が止むと言う幻想が多くに伝わっているのだから、止むと言う可能性も有り得る。
「……作ります、作りましょう」
「退屈してるからわたしも手伝ってあげるわ」
なんとなく仲間はずれっぽい雰囲気でもあったのか、遠坂もティッシュ箱から二枚ティッシュを引き抜き一枚を丸めた。
「どのぐらい作れば晴れるかな」
「沢山降ってますから、沢山作りましょう」
そう言ってセイバーも見様見真似で作り出した。俺は台所に行き、タコ糸とハサミを持ってくる。
雨の日も悪くないけど、出来るならば明日は晴れますように。
*
まったりしてる話。
学生には貴重な一週間に一度の休みの日、冬木市にある大きな武家屋敷屋敷には人影が二つあった。一つは地面まで着きそうなほどに伸ばされた髪をうなじの辺りで一つに纏め、後は知らぬ存ぜぬとばかりに垂らした長身の女性が一人、そしてもう一人は特徴的なトゲトゲとした赤い髪を撫で付けもせず、季節感の無いトレーナーと少し太めのパンツを履いた中肉中背の男が一人。共に日の当たる縁側で裸足になった両足を外に投げだし、幼く伸びた芝の上空でブランコのように揺れている。
二人の間にはお盆があり、その上には湯のみが二つと急須が一つ。そしてお茶請けの羊羹が二切れずつあったのだろう、一つは丸々、もう一つは半分程無くなっている。共に同じ分量ほど。
幼く伸びた芝生には当たっているだけで眠くなるような暖かな日の光がたっぷりと注がれていて、そこには気まぐれでこの屋敷に来ていた三毛猫が瞼を閉じて寝転げ、太陽に当たっている。実に気持ち良さそうなそれは見ていて目を細めたくなるほどの光景で、事実、髪の長い彼女と赤毛の彼はそんな三毛猫を見ながらもうすぐ一一時を回るだろう時間を過ごしていた。
彼が湯のみを取ると彼女は羊羹の半切れを口に運び、彼女が羊羹を咀嚼しながら湯のみを取ると彼は羊羹の半切れを口に運んだ。まるで鏡映しの行動に彼と彼女は視線を合わせ、細めていた目を瞑り、口の端を引き上げて歯を見せた。
三毛猫は何かを感じ取ったかのように二人が笑った時に起きて、二人が同時に振り向いたのを見て女性の方に歩み寄り、垂れ下がる髪を両手で掴もうと立ちあがる。女性は突然掴もうとされたために驚き、長い髪を掴んで引っ張り、芝生辺りにまで垂れたそれを縁側より上に引き上げた。三毛猫は何処となく不満そうに動いた髪を追い、女性の膝に座って垂れた髪を両手の肉球でしっかりと掴む。肉球に挟まれた数十本の髪サラサラと零れて縁側の上に広がって落ちる。縁側の上に零れた髪を追い、三毛猫は膝元から体を落として髪を触る。彼女は僅かに引っ張られた痛みを覚えたのか、一度頭を振って芝生の上に落ちた、縁側の上に広がった髪がそれに引かれて彼女の後ろに――畳に零れる。
三毛猫は逃すものかとばかりに地面に押しつけて飛ぶのを防いだ髪を肉球で撫でながら、女性がしている日光で白く輝た眼鏡に視線を移す。猫はピクリと鼻を動かし、連動する髭を眼鏡と同じく日光に光らせながら、野良にしては立派な毛並の尻尾を立てる。そして靭やかな足に力を込め、膝元からその眼鏡目掛けて目一杯に体を伸ばして跳躍する。
「これは大事なものなので、貸すわけにはいきません。諦めてください」
背一杯に体を伸ばした三毛猫を両手でしっかりと掴みながら、女性は言った。猫は不満そうに尻尾を丸めお腹の方に持ってきてから髭を心なしか落とし、その濡れた鼻をムズムズと動かす。
「その代わりと言ってはなんですが、髪は触っても構いません。……汚さないのであれば、ですが」
彼女はうなじの辺りで髪を纏めていた輪ゴムを外し、髪先から数十センチ上にしたところで髪を縛り、習字の筆先のようにしたそれを猫の目の前で揺らす。
三毛猫は条件反射のようにそれに飛びつき、今度はたっぷりとある髪をその肉球で弄んだ。
「……まあ、こんな日も悪くないよなあ」
その隣で湯のみを傾けながら、赤毛の彼が呟いた。
*
Live wire hit cut
「ごめんね、士郎」
あやまらないで欲しい。悪いのは凛――いや、遠坂じゃなくて俺なんだから、あやまるのは間違いだ。
突き刺したナイフを捻るような痛みが胸から訴えられる。傷のない痛みが胸からせりあがってきて、同時に胃の内容物もぶちまけたい気分になった。
「どのぐらい付き合ってるんだ?」
自分でナイフを捻るぐらい莫迦なことはないだろう。それでも知っておきたくて突き刺さったナイフに力をいれた。
「もうすぐ一年ぐらい。半年ぐらいよ、初めてその人としたのは」
恐いぐらいに暗い感情が自分の中にあったなんて知らなかった。遠坂を抱いたその人に嫉妬を感じる、成長して……いや、する前からずっとキレイだった遠坂を離した俺に怒りを感じる。それなのに、平気でポーカーフェイスを保てる冷たさに吐き気がした。
握ったナイフを逆手に持ち替え、捻り上げて体に突き刺していく。
「いいヒトか?」
「そうね。一時の感情の手伝いも無かったとは言えないけど、士郎を裏切っちゃうぐらいには」
体の中に潜ったナイフが冷たくて熱い。遠坂が少しまぶたを伏せているのは、罪悪を感じているのであって欲しいと思うけど、自分の驕りに過ぎないのだろう。いや、希望にすぎないのだろうか。遠坂には悪いけど、それが俺の希望通りであればいいと思う。
ただ、それ以上に罪を感じないで欲しいなんて格好良い台詞を吐いてみたいけど、きっとそんなこと言わなくても遠坂は解っているし、そうしている。俺に格好良い台詞なんて似合わないし、言う権利も場所も用意されていない。
「幸せか? 今はそうじゃなくても、幸せになれそうか?」
「やっぱり莫迦ね。今、彼氏を振った女にそう云うことを聞く?」
少し泣きそうに苦笑する遠坂を見て嬉しく思う俺は言うとおりに莫迦で、そんな莫迦な男を一年前まで好きでいてくれた遠坂はやっぱり素敵な女性だ。そして、そんなことを口にすれば、今ごろ気づいたの? なんて台詞が返ってくるに決まってる。それは呆れたような感じに違いない。
あまりにも精密にそんな光景が頭に浮かんで、こんな状況なのに笑った。
「なに笑ってるの」
思っていたことを素直に伝えてしまって、やっぱり呆れた風に返された。
もうそろそろ、ナイフが柄まですべて体の中に突き刺さる。
「最後にキスしていいか?」
「……ダメよ。もう、士郎の彼女じゃないから」
そうか。なんて間抜けなことを言い、俺は拳銃が発砲されたような音を聞いて死んだ。遠坂の腕に模様が輝き、俺の心臓にしっかりと突き当てられた人差し指から黒い弾丸が正確に撃ち抜いたから。せめてものと言う遠坂の気持ちなんだろう。苦しみもせず、なんの効果かは知らないが即死した。
そして��無限の剣製�♂q宮士郎は遠坂凛の手によって持ちかえられ、魔術協会に永久保存される。そんなこと、既に死んだ俺にとってはどうでもいいことだった。なにせ遠坂が俺を殺した後に、涙で化粧を落としながらキスをしたことだって、俺は知らないのだから。
*
お姉ちゃんな藤ねえる。
良く晴れた日の昼、俺と藤ねえは墓参りに出かけた。雲がかすむほどの青い空は、死んだ切嗣が好きだと言った空を思い出させる。
予算の都合でそれほど立派にもできなかった切嗣の墓に花を添えて、たわしと水で精一杯キレイにしてやる。珍しく藤ねえも手伝ってくれてるから、きっとキレイになった。
「キレイになったね」
「ああ」
たわしで磨いた墓石は艶やかな光沢を取り戻して、強い日の光を反射する。青すぎる空を映し出す墓石は冷たくて温かい。眠っている人を解っているかのように。持ってきた線香の包み紙に切嗣が使っていたライターで火をつけて線香を灯すと、藤ねえに半分渡した。線香一束、切嗣一人にはとても抱えられそうにない分量だ。
「子供に渡してくるから、切嗣は半分だけ」
「わたしはもうちょっとあげようかな」
それと、少しだけ長めにまぶたを閉じて心で言う。
悪いけど、正義の味方にはまだまだなれそうもない。
藤ねえは三分の二ほどを切嗣の墓に置いた。
バケツを持って切嗣の墓から逆修墓などを回って線香をあげ終わると、バケツを片づけて背伸びをする。
「どうも」
と俺と藤ねえで柳洞寺に住む修行僧の人に挨拶をすると、お賽銭を五円ずつ放りこんだ。大きな願いを言うのも気が引けるから、とりあえず強くなれますように、と。
柳洞寺の長い石階段を下る。とても高くてとても良い景色が見えるけど、以外と急で恐かったりもする。
「ねえ、士郎」
「ん?」
「急がなくても良いよ。お姉ちゃんは、ちゃんと正義の味方になれると思ってるからさ」
ああまったく、なんだってこういうことをいきなり言うのか。クリティカルヒットだ、一撃で首を飛ばされる。
「誰かを助けると正義の味方なら、とっくに士郎は正義の味方だからね。お姉ちゃん、士郎に助けてもらってばっかりだし」
「ほんと、少しは自分で出来るようになってくれよ」
「なによ、もー。せっかく励ましてあげたのに」
ありがとう、泣きそうなぐらい励まされてる。ニンジャもびっくりの一撃死っぷりだ。
潤んでいる目を見せるのが恥ずかしいから少しだけ走って階段を降りる。
正義の味方が泣いてたんじゃ格好つかないだろ? 藤ねえ。
*
日和、遠く
目覚めて感じたのは寂しさ。襖の向こうに眠っているわけでも、道場の床に正座しているわけでもない。
きっとこの瞬間が、本当にセイバーはいないんだと実感した時だった。もう、彼女には会えない。
……よし、衛宮士郎。朝から落ちこむなんて趣味じゃないだろう。立ち上がって虎にメシを作れ。それが良い。
少し動いただけで体中を走る激痛に強く奥歯をかみ締めて、布団を片付けた。
今日からまたいつもの世界が始まる。後二ヶ月で、俺は三年生に進級して桜は二年生に、そして藤ねえは例年通りに。
遠坂は、どうするんだろう。
不意に頭を過ぎる考えから意識を離して、少しだけ焼き色のついてしまった出汁巻き卵を仕上げた。
もうすぐ、変わり映えのしない朝が始まる。
「おはよう、士郎」
「おはよう、遠坂」
通学路で顔を会わせた遠坂と挨拶を交わした。多分まだ体が痛むだろうに、その様子をまるで見せない。
当たり触りのないことを喋りながら通学路を進む。病人を労わるみたいにゆっくりと、学校までの距離を消化した。
風の強い屋上で遠坂と弁当を食べる。彼女は購買部で買ってきたパンで、俺は朝作った食事の切れ端などを詰めたもの。
通学路を歩いた時のようなたわい無いこと。少しだけ相手を非難するような皮肉る軽口。次々と滑らかに彼女と俺は口にしていく。
怪我した場所を撫でるように、恐る恐る時間が進んでいく。見えない床を渡るような慎重さと不安で。
好きな人と体育祭のフォークダンスを踊ったようなぎこちなさだけは、俺でも感じ取れた。
「セイバーは?」
それは、吹っ切ったのか? という意味なんだろう。ぎこちなさは手を繋いでみれば、案外、簡単に解けるのに似ている。
「……ああ」一度頷いて付け足す。「未練なんて、きっと無い」
青醒めた空の下で宣言するように、ナイフで断ち切ったように言った。
未練なんて、きっと無い。きっと。きっと。
自分を騙し、周りを欺き、世界にすら偽り続ける。この身は、それだけに特化したものなのだから。
本当にそう思えるまで、想い出に昇華できるまで。眠った彼女を安心させるために。
投影、開始――。
*
感情ストレート
プレーンなクッキーの生地にブロークン・オレンジ・ペコの茶葉を入れて混ぜ、薄力粉を加えて更に混ぜる。後はオーブンで焼けば出来上がる。
「ふぅ。こんなもんでいいかな」
さっきから台所に立ちっぱなしだったから、少し足が冷えた。それでもあと十三分ほどは立ちっぱなしでオーブンを見張らなくちゃいけない。スリッパを買おうかな、なんて思ってから畳には似合わないだろうと苦笑する。
クッキーが焼き上がって、香ばしくて甘い匂いが台所に広がる。クッキーをオーブンからバットに移し、冷ましてから一つ味見をした。温かくて優しい甘味と紅茶の香りが心地いい。上手く出来ているみたいだ。
「さて、じゃあ包むか」
他のバットにあるアイスボックスクッキーとオレンジピールクッキーに、今しがた作ったばかりの紅茶クッキーを三枚ずつ袋に入れてリボンで閉じる。
藤ねえの分は黄色と黒のボーダー。遠坂の分は赤がぴったりだろう。美綴は藤色かな。で、桜はやっぱり薄紅に決まり。
明日はホワイトディだから。質問には回答を、要求には返答を。感謝には――感謝を返そう。
普段は言い切れないありがとうを。
そしてたくさんの愛情に愛情を。
*
カウンターパンチ
「はい、これ」
黄色と黒のリボンで閉じた袋を出した瞬間、藤ねえは掠め取るように奪った。まったく、無くなるもんじゃないって言うのに。
「ありがとー。この三倍ならお姉ちゃん三倍嬉しいんだけどなー」
「藤ねえからもらったのはチロルチョコ三種類だから、三倍返ししてるだろ?」
まともなのはスタンダードだけで、あとの二つは受け狙いかすいーとぽてと味ときなこもち味だったけど。いや、美味かったが。
「じゃあ、来年はチロルチョコ百個上げたら三百枚もらえるのかな?」
「値段を三倍にして三百円分にする」
「なによー。結局おなかいっぱいにならないじゃない」
「三百枚も作れるか、莫迦虎」
「ありがとうございます、先輩」
薄紅色のリボンで口を絞めた袋を大事そうに抱え、桜は笑う。そんなに喜んでくれるならもっと手の込んだものにしておけば良かったかと思ったけど、学生アルバイターの身分ではその為の資金もなかなかきついものがある。
「大した物じゃなくて悪いな」
桜がくれたのは、質の良いチョコレートを使いきちんと味を上げる手の加え方をしたものだったからだ。
「大した物ですよ。世界中探したって買えないんですから」
少しだけ恥ずかしいけど、とても嬉しい。だからまあ、二人して顔を赤くしてるのは仕方がない。
「はい、ホワイトディのクッキー」
「毎年どうも」
藤色のリボンで閉じた袋を胴着姿のまま受け取り、美綴はそのままいそいそとリボンを解いてアイスボックスクッキーを口に入れた。
「なるほど。一年経ってるだけあって腕が上がってるな」
「そりゃまあ、色々と大変だから」
味を気にしてるとは思えない虎とか、負けられないライバルとか弟子とか。
中華で負けてるのはいい。洋食で敵わないのも認めよう。ただ、和食では負けたくないのだ。クッキーが西洋のお菓子であるというのは置いておいて。
「じゃ、朝練がんばれよ」
「そっちも頑張れよ。人の目盗んで」
大きなお世話だって。
「サンキュー、士郎」
昼休みの風が強い屋上で遠坂は、赤いリボンで絞めた袋を受け取った途端に開け、紅茶クッキーを一つ齧る。
「ふうん、良く出来てるじゃない。七十五点ってところかな」
「そりゃ厳しいな」
「なに言ってるの。量販店の品が五十点基準よ、甘いぐらいだと思うけど?」
それはちょっと過大評価な気もするけど、素直に喜ぶことにした。辛口の遠坂――江戸屋のどら焼きでも九十点評価――からすれば、かなり甘めである。
「ま、わたしに追いつくまで精進しなさい」
遠坂のくれたチョコレートは黒胡椒を効かせたスパイシーなやつで、かなり美味かったのを覚えている。甘味を調節するためのミルクチョコレートと、攻撃的なビターチョコレートの二種類だったこともかなりの好評価で。
「一年あれば追いついてやるさ。ゴールデンルールを完全に踏まえた紅茶付きで」
「それはずいぶんと強気で。楽しみにしてるわ、衛宮くん」
ああ、楽しみにしてやがれ。
*
君はライダー
晴れた日の昼下がり、俺とライダーは自転車に跨って草原の続く道を並んでいた。少し後ろから桜も自転車を漕いで追いかけてきているけれども、自転車の性能のせいか身体能力のせいか、少々遅い。結果として俺とライダーが並んで走り、まるで競争しているかのようなかたちになっている。
「あと、五分ぐらいか」
「そうですね。もっとも、飛ばせば三分と掛からないでしょうが」
口元を吊り上げて、彼女は言う。
「……やるか?」
「ええ。やりましょう」
俺はサドルから腰を離し、競艇で言うモンキースタイルのような恰好になってハンドルを握りなおし、ペダルにくっ付く足に力をこめた。ライダーも同じような恰好になって、眼を見合わせる。もちろん、そのままでは英霊であり、ライダーとして召喚された彼女には敵うわけもないのでこちらは強化の魔術を使用できるハンデありである。
「よーい――」
「――どん!」
タイヤがスリップしない程度に踏みこんで、その後はひたすらにペダルを漕ぐだけ。スタートはまずまずだが、流石に加速と速度の維持は彼女には及ばない。故に、スリップストリームが発生するかしないかに賭けるしかない。
後方で桜が何か言ったような気がしたけれども、風を破り、ギアの回る音に紛れてその声は聞こえなかった。
ライダーの長すぎる髪はさすがに自転車を乗るには適さないため、纏めて編み込みにし、根元を中心にぐるぐると巻いたいつかのセイバーのような髪形になっている。長い分随分と大きく、二、三度巻いた後でしっぽのように落としたそれが、ほぼ水平に浮かんでいる。二台のマウンテンバイクは縦に並んで草原の坂道を登り始め、俺には負担が大きくなり、少しずつ離され始める。
「ちっく、しょ……負ける、かぁ!」
筋肉よ破裂しろとばかりに漕ぐ速度を上げる。まだ漕ぎ始めて一分、ラストスパートには早過ぎる。けれど、そうでなければ追いつかない。スリップストリームは効果が出ない。それでも引き離されない程度にしか速度が出ない。
結局俺は負け、ライダーが帰りの際に自転車一号に乗りたいというのを許可することになった。ちくしょう。
一号と二号の違いはチューンナップの熟度とバランスにある。一号は手持ちの材料を使い込んで弄り切ったものだが、二号はそれなりにしか弄っていない。桜の三号は常用にほとんどチューンナップしていないが、常用しているだけあって乗りやすくはある。
「あー、帰ったら筋肉痛だろうなあ」
ゴール地点――今回のピクニックの目的地である大きな木のある草原で寝転がり、ゆらゆらと流れる雲を見ながら呟く。そしてきっと二分後には桜が来て少々の説教もあるだろう。そちらはライダーとて受けるだろうが、彼女は一号に乗れるのを喜んでいるためにそんなことどうでもいいのかもしれない。
ライダーは最近、持ち前の身体能力を生かしたアルバイトをしている。短期の肉体系のきつい、俺が好むようなそれは割合が良いからだ。そして彼女の身体能力ならば片手でだって二人前のことぐらいは簡単に済ましてしまうに違いない。彼女がバイトをし始めたというのも、雷画爺さんがバイクに乗っているのを見たからだろう。彼女が最近愛読しているのは大型バイクの免許に関するものだったはずだ。スクーターにも一時期乗っていた気がするが、あまりにもコストパフォーマンスが悪いらしく、近頃は乗っていない。確かに、リミットを外したとてスクーターでは五十キロ、六十キロがせいぜい、それならばガソリンを使って走るよりも人力の方が速いしガソリンも使わないでお得だ。
最近の悩みごとは、彼女がいつ車の免許を取って中古屋でトレノかレビンでも買ってきて、チューンしてくれと言い出すんじゃないかという事だったりする。レース用のエンジンなんて手に入りはしないのに。スーパーチャージャーかターボでもつけるのだろうか。
まあ、しばらくは大型のバイクを乗りまわしてツーリングでもすることだろう。
「せんぱーい、どうして先行っちゃうんですか!」
ああ、桜が来た。そろそろ怒られてこよう。
*
Hold your hand.
体が重いのはいつもの事だった。わたしの寝起きはいつだって低血圧で、体を動かす為にジョギングをしようと動こうなんて思ってはくれないのだ。もっともそんなことするつもりもないんだけれど。
糸の弛んだマリオネットみたいに緩慢な体を動かすと、制服に着替えて階段を下る。牛乳を取り出してグラスに注ぐと一気に飲み干した。カルシウムの固さが痛いけれど、それも悪くない。それで目覚めると洗面所に直行して顔と歯を磨き、トーストに目玉焼きを乗せて噛み砕くともう一杯牛乳を飲みこんで口を濯ぎ、わたしは家を出た。
歩くことに楽しみもないから淡々と進むこと十五分、ようやく道程を半分まで来て交差点に差しかかる。ちょうど反対側からは士郎が歩いてきていて、それを見ると彼は手を上げて挨拶した。
「おはよう、遠坂。今日も会ったな」
「おはよ、士郎」
そう。実のところ、わたしと士郎はこのところ毎日この交差点で顔を合わせている。それには色々と理由があったりなかったりするのだが、それは誰に言うことでもないので割愛する。
いつものように人波に紛れるまで士郎の昨夜のへっぽこぶりにダメ出しをすると、優等生の仮面を被って人波に紛れた。士郎がまだ慣れないような引き攣った笑いを浮かべるとそれに無言で笑いかけ、ボロを出したら泣かすとアイコンタクトした。彼も同じようにアイコンタクトで了解し、真面目な顔を作り上げて歩く速度をやや上げる。
わたしはその速度を維持したままで学校へ歩いていく。一時期付き合ってるのではないかなんて噂された行動の回避方法は至って簡単だった。
聖杯戦争は終わっているんだけれど士郎と昼休みを過ごすのは習慣になっていた。士郎か桜の作ったお弁当を突ついてはどうでもいい雑談をしたりして、まだ寒い屋上の風を狭い物陰でやり過ごす。もうすぐ春になるだろうから、屋上に来ることも無くなるだろう。なにせ見つからないからこの場所を選んでいたのだ。人が来るとあればこの場所を使う理由はない。
会話しながらお弁当を突つき終えて温くなってしまったウーロン茶を飲み終えると、ちょうどいい具合にチャイムが鳴った。さて、そろそろ戻らないと遅刻だ。
「じゃ、行きましょうか」
「そうだな。先に戻っててくれ、俺は片付けていくから」
弁当箱を布で包むと士郎はウーロン茶の空き缶をポケットに突っ込み、明らかに校則違反の速度で階段を下っていく。彼がお弁当を拵えてくるんだから本来はわたしがするべき事なのに、返事など聞かないうちに落ちるように降りていく。
「まったく……」
この感情はどうにも、もやもやとしている。ああまったく、その気遣いがどうにも気に入らないとあの莫迦はどうして判らないんだろう。
まあきっちりその善意に与かっておいて言えることでもないのだが。
全ての授業が終了し、ホームルームを終えて委員長が号令をかけた。途端にクラスメイトは立って全体の七割ほどは部活に向かい、二割は談笑しながら帰宅、残り一割はだらだらと会話をしながら残っている。
もっともどれに属すでもなくわたしは真っ直ぐに家へと向かった。その向かう先は自分の住処ではなく、衛宮邸ではあったが。噂曰く幽霊屋敷にはほとんど寝に帰っている状態で、あとは週末に掃除をする程度の物置状態になっている。あまり家族というやつに触れずに育った人間としては、あの家が温かくてつい居てしまうのかもしれない。
「一応、等価交換の原理は守っているはずなんだけどね」
士郎の魔術の師匠をしているし、食費だってもちろん払っている。金欠の宝石魔術師としてはあまり気軽に出せないのもたしかだが、それ以上にあいつを犠牲にて上に幸せになりたくないと思う。わたしは、魔術師として異端になってしまってるのかもしれない。
これはあの温かい雰囲気でわたしが綻んだせいだろう。ま、そんな現状に後悔しているわけでもないんだけれど。
そんな今更なことを考えていると、
「よお。遠坂もいま帰りか?」
士郎が学園の門を出たところに居た。
「そうよ。今日のお茶請けは江戸前屋の鯛焼きでしょ」
「すっかり俺の家把握されてるな」
苦々しく笑っている。どうも判られすぎるのは嫌なのだろうか。
「じゃあ、一緒に帰りましょ。方向も同じだし」
「だな」
士郎の手を手にとって歩き始める。一瞬呆然としながらも歩き出し、途中で状況が理解できないように慌てる彼の姿は面白い。おもちゃとして一級品だろう。
「ちょっ……遠坂、離せ!」
「あはは、離してあげない。さあて行きましょうねー士郎君。お家はこっちよー」
「一人で歩けるっていうか俺ん家だし!」
わたしの顔も赤くなりそうなのは秘密だ。
*
夏の日の一欠けら
じりじりと肌を焦がすような日差し。高く、鳥はどこまでも飛んでいきそうな蒼穹。まるで柔らかな綿菓子のように浮かぶ入道。
そういったものは、一切存在しなかった。
「これ、一体どうしたことかなぁ」
空に浮かぶのは濃灰色の雲に他ならず、抜けるような青いはずの空は薄い灰に埋め尽くされ、降り注ぐのは日差しではなく土砂降りの雨だった。玄関から一歩出て立ち尽くしているのは、ワンピースの水着にアロハシャツを羽織ってキュロットを穿いた藤村大河その人である。彼女は肩から膨らませた浮き輪を腰に通し、空気を圧縮して放つタイプの水鉄砲を携え、むなしく灰色に浮かんでいる。
「うわ、わたしってば場違い? もしかしてエアをリードできてない?」
それをもし人が聞いていたのなら、脊髄反射もかくやという速度で頷いただろう。
その原因は、細かいことを気にしない彼女の性格と天気予報など見なかったことにあるだろう。空が薄暗いことに疑問を抱かず、常よりも涼しいことに気持ち良いとしか思わず、プールか海にでも行きたいという単なる衝動をそのままぶちまける。その結果に、今の彼女は居た。
その恰好のまま首を捻り、数十秒ほど考え込んだあと、閃いたように掌に拳を打ちつける。
「むむむむむ……傘が必要と見た!」
彼女は最後まで衝動を思い直さなかった。
*
blue new days.
ざあ、と風が吹いた。鮮やかな緑が揺れて跳ねるようにわめいている。そこに透明と白の混ざった飛沫が飛び、緑をいっそう彩り良くしていく。指の力が強くなり、より抑えられたホースが水を遠くへと撒き散らしていく。運が良ければ、小さな虹でも見つけれるだろう。
「さて、水撒きも終わりましたね」
すっかりと馴染んだ手付きでホースを片付け、バゼット・フラガ・マクミレッツは額を拭った。白いTシャツと真新しい藍色のジーンズが良く似合っている。彼女が職を見つけるまで居候させて欲しいと衛宮家に頼み込んでから、一年が経とうとしていた。
当初、彼女は真面目に就職活動をしていた。基本的に常識が欠如しているわけではないし、無学というわけでもない。ハイスクール卒業ぐらいの知識はある。ただし、それに沿った日々を送ってきたことはないのだが。
その知識を駆使し、士郎たちの知恵も借りて彼女は履歴書を出してみた。その内容が大体に於いて偽造であることは言うまでもない。面接までは通るのだが、結果は惨敗の山である。どうしても、知識と経験の相違が露呈してしまうのだ。
また、彼女自身の性質も災いした。不必要、あるいは関係の無い質問に対して、どうしても切り返してしまうのだ。そのせいで心象を悪くしたというのも要因の一つだったろう。
そんな彼女が朗らかな顔をして鼻歌を歌いながら、水滴で輝いた庭を眺めている。あまりにも不自然な話だ。本来ならば今だ不安定なことを思うべきだろうに、今はそんな影すら見つけられない。それは即ち、ダメ人間への第一歩である。
彼女は辺りを見回してから今度は如雨露に水を汲み、とうとう作られてしまった家庭菜園に水を注いでいく。トマトがある方へはほとんど水をやらず、緑の野菜には湿らす程度にかけながら、バゼットは日課を終えた。
「こうして暮らしてみれば、私もなかなか出来るものですね」
満足げに頷いて、如雨露を片付け家へと入っていく。雲は散り散り、空は青く。
彼女の社会不適合性は、未だに直りそうにない。
*
ジャック・イン・ザ・ボックス
「シロウ、これはなんですか?」
セイバーが指していたのは蓑虫だった。枝葉からぶら下がって、吹き抜ける風に揺られている。
俺にとってはなんてことのない、毒ではないが薬でもないような存在でしかないのだが、彼女にはとても新鮮らしく、期待の光を宿した眼で聞いてくる。知る限りのことを伝えてみると、よりいっそう好奇心を刺激されたように蓑虫を観察している。
「ふむ。これがメスなら、この中に卵があるのですね」
さすがに折れて落ちた細枝で突くような真似はしないが、爪先で殻を揺らすセイバーは、鍵を開ける前の宝箱を目にしたような気持ちなのだろう。たしかに謎めいたものを解明したい気持ちは判らないでもない。しかしそれはそれ、これはこれ。まずは庭掃除を終わらせないと。
竹箒で掃くと、地面の赤色が山を成していく。焼き芋でも作ろうかと考えたが、さつまいもは買っていなかったことを思い出す。今回は残念、さよなら発、バイバイ経由、終点は焼却処分と相成りました。
小学校の頃を思い出すようなプラスチックの安っぽい大型ちりとりに枯れ葉を押し込むと、肩と首で箒を挟みつつちりとり一号を発進させる。目指すは焼却炉へと。
箒とちりとりを片付けて帰ってきても、セイバーはまだ蓑虫を面白そうに観察していた。物珍しいのか、頑張っているものが好きなのか。しかしよくもまあ、あんなに見ていられるものだと思う。
「寒くないか、セイバー?」
「いえ。ただもう少し、ミノムシを見ていたい」
――ふむ。そんなに熱中するほどなら、俺も興味が湧いてくる。じっくり見たことは無かったが、果たして蓑虫とはそんなに面白不可思議生命体であっただろうか。ひょっとしたら、某ヒロシ探検隊もびっくりな謎が潜んでいるやもしれない。
『蓑虫の蓑の中は魔境!? 不思議な生命の神秘に挑む!』……うん。まごうことなき三流だな。
なんともはや、セイバーと居ると物事が面白く見えてくる。さて、明日は蓑虫から別のものに興味を移していることを願って、縁側でお茶をすることにした。
*
ごろごろわくり
自室の数少ない家具である机の上で、買ってきた本を取り出す。
月刊『工作( ) ってあそぼう』お父さんを購買層に狙った日曜大工が主軸になったこの雑誌は、工作の話や失敗談などを交えて面白おかしく紹介しているため、エンターテイメントとしてもわりと二流の雑誌だと記憶している。ただし毎月買っているわけではないから今でもそんな風なのかは確証を持てないが。
「どれどれ、今月号はどんなもんかな」
毎回新しい日曜大工品の作り方を丁寧に乗せているため、効率の良さも習得できるから我流でしかやらない俺にはありがたい。今月号の日曜大工品は、『世界に一つだけの棚〜オンリーワン〜』なるほど。微妙に外れているところが二流たる所以か。
ざくざくと読んだあと、妙に棚を作りたくなるような代物だった。こんなに影響されやすかったかな、俺。ただ作っても置く所どころか必要としている人が居ないというのは如何ともしがたい。使い道が無いものを増やすわけにはいかないし、今回は自制するとしよう。
しかし工作欲――ないし整備欲に火がついてこのまま終われるほど枯れてもいない。この滾った血をどこに向けてくれよう。
「……そうだ。そろそろライダーの二号でも改造してみるか」
全力で漕げるとまではいかないが、そろそろ全体の耐久性でも上げた方が良かろう。幾度もぶっ壊されるよりは、一度剛性やらを強化しておいた方が建設的だ。
そう決めると雑誌を放ってからつなぎに着替え、縁側でサンダルを引っ掛けて二号機を取りに行く。早く改造し終えないと一号を使用させる口実にされちまうから、とっとと終わらせないと。
二号を土蔵へ運んでから電灯を点け、まずは各部をチェックした。普段から人間以上の能力で酷使されているためか、ブレーキが磨耗してチェーンが垂れていた。ギアも心なしか磨り減っている気がするし、こうなると全点検しないと危ないだろう。工具を握る手に力が入る。
「そろそろブレーキもノーマルじゃ危ないな。たしかこの辺にいいのが……よしあった。フレームも太い奴に変えたほうがいいかなーっと、うーん、いい感じのが無いな。とりあえずこのままで。チェーンとチューブは新しくしておいた方がいいよな。ギアももっといいやつに交換して……ああ、タイヤもパターンがなくなりそうだ。この際――」
やばい。今ある中で一から作り直しレベルになりそうだ。下手したら一号より手間をかけることになっちまうかもしれないが、俺の工作欲が燃え上がって消化不能だった。こうなったらせいぜい頑張るとしよう。
ちなみに、こうして手間のかかることをし始めたせいで、結局ライダーに一号を使用されることとなったのは蛇足である。
*
ささいなやまい
ふと、そう心に色づいた。なんにせよ、それはとても奇妙不可解摩訶不思議であり、到底わたしには理解できないものだとばかり思っていたのは事実だ。だがそれはいまやわたしの心を蝕み、ごく自然にわたしを変貌させる。それはなにものか。愛と呼べばいい? 恋と仮定してみようか。はたまた大いなる母性本能かもしれない。あえて選ぶとするならば、寂寥に導かれた女の悲しさと言えるかもしれない。
ああ、キスしてぇ。むしろ奪い尽くしてやりたい。あの唇を跡形もなく陵辱してやる。――そんな気分になってしまうのは。
きっかけは何気ないことだ。高く舞い上がりそうな蒼穹の午前、士郎が緩やかに流れる雲を眺めている時のことである。縁側から足を下ろし、庭掃除を終わらせて一息吐いて空を見上げたあのバカが、一瞬だけ切なそうな顔をした。たったそれだけのことで、センチメンタルでもロマンティストでも、ましてや少女趣味ですらないと思っていた現実的、現金主義のわたしがキスしてやりたいなんて思った。
「――――」
居間にはわたしと士郎だけ。イリヤと藤村先生は藤村組の方で遊んでいて、桜は別の場所で洗濯物を広げている。ホンの少しだけ白状するのなら、絶好のチャンスだとわたしの何かが言ったことを認めよう。これだけのシチュエーション、そうそうあるものではない。ましてや人に見つからないようなこんな瞬間を見逃していいのだろうか。
それはとても不幸なことだ。好機を逃すだなんて、わたしが許すはずがない。ただでさえここ一番の詰めを誤りやすいのだ。こんな用意された脚本のようなわかり易いシーン、乗らずにおくべきか。後から思えば、この瞬間のわたしは――いや、キスしたいなどと思った瞬間からわたしは酷くおかしかった。とても正気とは思えないし、少しばかりの理性もなくしてしまっているとしか説明がつかない。
「ねえ」
士郎が首だけでこちらを見る。その顔には切なさの欠片もなくて、まるでとびっきりの晴天の残滓みたいに柔らかく温かいえがお。それが決定的にわたしがイカれた瞬間だ。
貪るように距離を埋め、むりやり体を振り返らせて唇を合わせた。キスだとか接吻というよりも、それが正しい。バードキスだとかそんなものじゃなくて、唇と唇をあわせて切なさとか温かさを共有したような気分だ。一方的すぎるやり取りに、士郎が怯まないはずもなくて……そんなことがいとおしくてたまらない。
ああ、もうダメだ。わたしはこいつにどうにかされてしまったのだ。気づかない内にその甘さに惹かれていて、気がついた瞬間には遅すぎる。まるで地獄のようなトラップだ。くそう、人間磁石か貴様。わたしは砂鉄のようにくっつきやすい人間だったんだろうか。
「遠坂、なにを――」
その疑問はもうとっくに解決してるよ、ワトソン君。将来、諸葛凛孔明と呼ばれるだろうわたしの頭脳にかかればイチコロだ。
「単なる愛情表現よ」
*
祭後夜
夜はまだ終わっていない。聖夜――あるいは聖誕祭と題されたこの日、恋人という関係にある者たちは、それを歪めて祝うのだ。たとえ飾られる木がモミではなくトリネコだろうと、イエスの誕生祭でなかったとしても問題ない。ようするに今夜は、盛り上がるかどうかが大切なのだから。
夜も更け、あらかたのパーティもたけなわになったろう時刻、衛宮邸玄関から人影が一つ、月に伸ばされた。暖冬の町といえど冬の夜だ。少し肩を震わせて、白い息が消えてゆく。
「あー、さむ」
手を擦り合わせ、その中に息を吹きかけた。霧のような吐息を何度か夜に溶かすと、寒さに慣れたのか人影――美綴綾子が一際大きな息を吐き出して、空を見上げた。まばらに広がる雲と、月明りが騒がしくも静かでもない夜を飾り立てている。星々は遠慮でもしているのか、視力の良い彼女でも多くを見つけ出すことはできなかった。
しばらく星を数えてから、綾子は目を閉じて今日のことを振り返ってみた。衛宮邸で行われた、聖誕前夜祭とはとても呼べぬほど騒がしくバカらしく、盆と正月の上に体育の日やみどりの日まで乗っけたような盛り上がりを見せたこの日のことだ。今でも口端に浮かび、鮮明に思い出せば腹を抱えようかというそれに浸りながら、彼女はもう一つ大きな息を吐いた。
こんなにも眩しい家で、何をやっているのか――。
「まったく、あたしもバカか」
脳裏にかすかよぎる、騒々しさに馴染めぬかのよう苦笑を浮かべる姿。奪われた目は、とてもじゃないけれど忘れることもできずにいた。融け始めた氷を噛まずに飲み込んだような感覚が綾子を包んだ。それは彼女にとってあまりにも許しがたく、救われないものだ。
弓の腕前は遥か上、自分を案じてくれる者がいて、学業も満点とは言えないが悪くはない。あんなにも幸せなはずなのに、満ち足りぬと喘ぐような空虚さ。いや、それさえも隠すような無機質の匂いだろうか。知り合ってから特別仲良くは無いが、それでも三年と付き合ってきた上で、それだけを感じ取った。
パンプスが土を引っ掻く。どこからか数回目のメリークリスマスが聞こえてくる。雲が散り、星がわずかに増え、空気は澄むように冷えていった。夜が青紫色に濃くなると、吐く息はより白く広がった。
気がつけば綾子の体は土蔵前にあった。パーティも幕の下りるころ、士郎が出て行ったのを見ていた綾子は、大河から土蔵へ行くだと聞いていた。もはや日課のごとく、大河の持ち込んだがらくたや、壊れているがまだ使えそうな機器を弄くっているのだと言う。
彼女が土蔵に手をかけると、少し重たいが扉は従うように開いてくれた。見れば、背を丸めるようにして士郎が型の古いビデオデッキのカバーをはめている。もうその修理は終わったのだろう。
「やあ、クリスマスまでご苦労なこったね」
「美綴か。お前こそ、こんなところ来なくてもいいだろうに」
最後にネジを締めてビデオデッキを脇へどかし、士郎は綾子の方へ振り向いた。
その顔に、綾子の見たものはない。いつもの、誰もが知っているだろう衛宮士郎の姿そのものだ。弓道の捉え方、その心の殺し方が異常で、人には病的なまでに優しく、面倒事を笑顔で引き受けて貧乏くじを引き当てる、彼女のよく知ったままだ。
なにかを言おうとしたのに、綾子は喉を通らない言葉を大人しく飲み下した。士郎は相変わらずとぼけたような、困惑した目で彼女を見ていた。なぜここに来たのかもわからないままなのだ。
「なんだっけな。用事があってきたのに、忘れちまったよ」
「おいおい。呆けるには早すぎるぞ」
苦笑を浮かべながら、士郎は立ち上がってジーンズをはたいた。それに綾乃の目にこびり付くようなものはない。誰もが浮かべるような、苦笑いにすぎない。少し目を細めて綾子は息を吐いた。
「忘れるようなら大した用事じゃなかったんだろう。それよりも、体が冷えてんるじゃないか?」
土蔵の中は風が入ってこないがその代わりに、長く居たのでは熱でも出しそうな気温だった。
「ああそうだな。区切りもついたし、家に入ろう。お茶でも淹れるよ」
土蔵を出て士郎の後に続きながら、綾子はかすかな違和感を覚えた。首を捻って、気づけば些細なことだった。ほとんど見上げることもないような士郎を、気づけば少し首を上げなければ顔を映せないようになっていた。彼女は口内で笑い、言葉と同じく飲み干した。
「なあ衛宮」
「ん?」
「年明けたら、弓道やらないか。どれだけ上達したか、見せてやる」
「それ、俺がやる理由にはならないだろう」
「いいじゃんか。お前の射が久々に見たいんだよ」
「美綴もけっこうしつこいよな。……いいよ、おっけー。そのかわりこてんぱんにしてやる」
「うわ、言ったな」
言い合う士郎に、幸せに馴染め無さそうに笑った影は見えない。
綾子は、士郎にもう少し幸せにぶちこんでやろうと思った。
INDEX