魔術使い、衛宮士郎
日本に居た頃と変わらない時間に目を覚ます。もっとも、イギリス基準だから実際には時差分日本より早いわけだけど。
時計の短針は五を指し、長針は六を指している。秒針は一秒ずつ動いてるわけだから正確な時間なんて分からない。ただ、今分かるのは五時三〇分の中に俺は起きたという事だけ。
遠坂はまだ起きないだろう、相変わらず朝に弱いみたいだから。セイバーはどうか分からない。夜は早く寝るから、朝早く起きてるかもしれない。それはともかく、少し体を動かす事にする。
寄宿舎から外に出てまだ薄暗い外に出た。
柔軟体操をしっかりと二〇分はかけてやり、体を十分に温めて解したらゆっくりと動く。全ての行動をゆっくりと行い、筋肉の動きを意識する。
太極拳に近いかもしれない。もちろん、朝の体操の方。それよりも若干ゆっくり動く。しかし、動き続ける。
速くなろうとする体と意識を抑えながら体を動かすのは酷く疲れる。早く動くにはまず正確な動きを身につけなければいけない。ゆっくりとした動きを二〇分もたっぷりとやり、徐々に動きを速めていく。正確に、速く。速くすると体の動きは崩れるもので、頭のイメージ通りの型から崩れないようにするには、意識するのと、身体を作るのと、反復練習で体に覚えさせるしかない。
今のトレーニングは意識と反復練習。緩から急に動きが変わったのを身体と意識に認識させながら、同時に加速させる。両方が追いつかないと崩れる、両方が追いつかないと砕ける。だから、正確に。無駄を無くして少しでも忠実に。且つ速く。
意識と身体が理解している限界点まで来て、ここから更に速くする。少しで良いのだ。一歩と言わず半歩で良い。今自分が限界と思っている場所から更に踏み出せれば、その分無茶が出来ると分かるのだ。それは大切な事。
だから、意識と身体が絞り切れている中から力を更に絞る。息が止まって、緊張感が増す。限界感が押し寄せてくる。歯を食いしばる。奥歯が軋むほどに食いしばって力を生み出す。
限界の一歩外に足を踏み入れ――仮想の剣、干将を振るった。
そこで、力が尽きる。同時に加速した意識と身体、感覚が元に戻り、呼吸していなかった事を思い出して肺の空気を入れ換えた。身体からは汗が浮くように出て、額から汗が垂れる。
今やるべき事は、シャワーを浴びる事だろう。朝飯の用意の仕度もあるし、烏の行水とばかりに汗を流した。
クローゼットからタキシードを出し、それに着替えてスウィッチを押すように意識を切り換える。これより俺はエーデルフェルト家の執事、衛宮士郎なのだと。
エーデルフェルトでは月給で給料を貰うらしく、月の終わりの日に直に給料袋が渡される。最初、間違いじゃないかと思った。多かった、思わず呆けるほどに。
ハッキリと金額を言うと一五〇〇ポンド。一ポンド二〇二円計算で日本円にすると、三〇万三〇〇〇円。一介のアルバイトに払う金額じゃない。いや、執事のアルバイトなんて聞いた事無いから就職扱いなのかもしれないけど、新米に払う金額ではない。
「これ、何かの間違いでは?」
と、ルヴィアゼリッタ様に聞くと、「あら、少なかったかしら?」なんて言う。
「いや、そうじゃなくて多いんじゃないかと」
「そんな事ありませんわ、エミヤは良く働いてくれます。エーデルフェルトでは実力主義。年齢や経験など価値には入りません」
だからその金額は妥当なのだと、ルヴィアゼリッタ様は言う。まあ、貰えるものは貰っといた方が良いんだろう。これ以上意見して機嫌を損ねる方が間違っている気がするし。
そうして初めての給料日が過ぎ、家計簿には先月分の赤字を加えても黒字になるほどになった。余った分は遠坂の口座とは違う別の口座に、いざと言う時の為に預金しておく。備えあれば憂いなしと言うやつだ。
掃除しながら先月の事を思い出していた俺は、ゴミが散らばっている事に気付いた。
「仕事中に考え事は止めよう」
そう呟いた言葉を思考の表面に刻みこんで、散ったゴミをチリトリに集めた。
何時も微かく掃除をしている成果か、何時もより早く廊下の掃除が終わると、習慣的に厨房に入ってしまう。まだそんな時間ではないのだけど、偶には昼に力を入れるのも良いかもしれない。
「ん、エミヤの坊主か。何時もより早いんじゃないか?」
「なんか廊下の掃除早く終わっちゃって。もちろん、手は抜いてないです」
少し冗談っぽく言う。
「で、今日は手間かかるモンでも作ろうと思ったのか?」
「そうしようと思ったんですけど、出来ないみたいですね」
あり得ない事に、食材が殆ど無かった。いや、可笑しい。昨日の夕食を作った時点ではまだ結構あったはずだ。と言うか、あった。
なのに、今は空っぽに等しい。精々、ジャガイモが二、三個と言った所。lb単位で買うジャガイモが二、三個しか残ってないと言うのは、酷くおかしい。
こっちではジャガイモが主食? と言うぐらいに食べるけど、それでも昨日の時点でダンボール一箱はあった筈なのだ。それがたった一晩で消えるとなると、盗まれたか或いは、
「パーティでもしましたか?」
料理長に聞いたが、答えはNO.パーティはしていないらしい。じゃあ大型の冷蔵庫を四分の三ほども占めていた食材は何処へ消えたのか? 食材消失事件、起こるとは考えにくい。大体、イギリスは食材自体は安い。質はともかくとしてならば。大量に買う事にはなるが。
思考するが、どうも答えには辿り着かない。それに思考して答えに辿り着いたとして、食材が戻ってくるわけではない。ならするべき事は一つ。
「買出し行って来ます」
着替えるのも面倒臭いからタキシードのままで食材を買いに行く。人手が欲しい所ではあるが、まだ午前中。掃除が終わっている人は居ないだろうから、仕方なく一人で。車でもあれば楽なんだろうが、残念ながら俺は免許も車自体も持ってない。
でもまあ、昼食分ぐらいなら一人で持って帰れるだろう、なんて楽観視した俺は歩きでフード・マーケットに歩いていく。
もちろんと言うか何と言うか、入る店は一般市民レヴェルの生活を送ろうとしている俺たちじゃ、まず入らないような値段の高い店。その分質やサーヴィスは良いんだけど、こんな所入ってたら明らかに生活費を超える。
それに普通の店でも、その中で安くて良い物を選べれば質は悪くない。それに普通の品質でも、そこはそれ、料理人の腕の見せ所だ。流石に普通の質じゃ素材の味を生かすような事はあまり出来ないけど、そんな事しなくても良いように十分な調理法があるのだ。
悲しくなりそうな理論武装は止めて、大人しく買い物に専念することにする。いくら全体的に質が良いとは言え、その中でより良い質を選ばなければならない。その為に品物に眼を通らせる。
数一〇分で買うべき品をカゴに入れ、良い品質の物を買えたと言う満足感で俺は幸せだった。
片手に二つ、両手に四つの限界まで膨れたビニール袋を、やじろべえの様にぶら下げて、エーデルフェルト家まで歩く。
その途中で、特徴的な姿を見つけた。長く伸びた金の髪を縦ロールにした髪型と、その後頭部に付いた大きなリボン。それに明らかに街中を歩くに適さないと思われるドレス。それは正しく、俺が仕えている雇い主(マスター)、ルヴィアゼリッタ様の姿だった。
ルヴィアゼリッタ様は明らかに過重で伸びていると思われるビニール袋の取っ手を握って歩く俺を見つけたようで、軽く微笑んで俺の名前を呼んだ。
「こんにちは、ルヴィアゼリッタ様」
タキシードでバゲットが飛び出しているビニール袋を四つぶら下げ、器量良しのお嬢様に頭を下げている姿なんて傍から見れば、コメディ以外の何物でもなかっただろう。
他愛も無い話をする。
使い慣れない丁寧語のクイーンズ・イングリッシュは、本来ならば拙くて聞けたものじゃないだろう。だと言うのにルヴィアゼリッタ様やエーデルフェルト家で働いているみんなは優しくしてくれている。それが嬉しい。
エーデルフェルト家に帰る途中だったと言うルヴィアゼリッタ様は、帰りの道中、俺と会話をする。日々にあった事、日本とイギリスの税率の違い、今朝の食材消失事件等、つまらない事。それが楽しく思えるから不思議だ。
だから、楽しいから壊しちゃいけないのだと、崩したくないのだと思った。
思ったのに、難しい。酷く難しいのだ。大切なもの程デリケートに扱うから、神経質になるから、深い問題が出てくるから難しい。
せめて終わるなら自分で言いたかった。けど、考えもしない方向から終わりはやって来た。
低い声。手当たり次第に猛獣の鳴き声を重奏させて、酷く不快にアレンジしたような声が聞こえた。
それを聞いて、それに続く反転したような甲高い悲鳴を聞いて、認めざるを得なかった。その声は、尋常ならざる物なんだろうと。
そして、寒気がした。例えるなら遠坂のガンドを僅か一〇センチの距離で避けろと言われているような、絶望に近い悪寒。
来る。後何秒だ? 何分だ? 何時間と言う事は無いだろう。でも、それは来る。
それに集中し過ぎて難しい顔で俺を呼ぶルヴィアゼリッタ様を無視してしまったけど、仕方が無い。僅かの隙も見せられない。
手の中のビニール袋を地面に置いた。ハンカチで取っ手を全て纏めたから中身は零れないだろうけど、盗まれはしないだろうか? なんて心配をして呆れる。なんだ、俺。妙に余裕じゃないか。
そんな訳ない。無理矢理自分を冷静にさせているだけだ。悪寒で掌に汗を掻きそうだから、自分を落ちつけたいから無理して自分の堅苦しい部分を崩す。でも、それももう無理だ。来る。来そう、来る。
拙い言い訳で纏めてエーデルフェルト家に急がせようとしたけど、「理由を説明してくれなければ行かない」なんて割と強引な所を見せるルヴィアゼリッタ様に呆れて苛立って哀しくなって訳分からない感情が溢れる。巻き込みたくない、バレたくない。
結局は通常で居たいだけなのだと言う自分に苦笑しながら、拙い言い訳を何度か繰り返して諦めた。もう、そんな余裕も無い。
うなじの辺りが痛い。或いは熱い。まるで濡らした唐辛子の粉末でも塗りたくられたような感覚。肌に辛味成分が染みこんだような痛さが無くならない。
何分ぐらいだ? 三分か、五分か。それぐらい前からうなじの痛みが現われ、消えない。前にも味わった事がある。これは、悪いものだ。
瞬間、黒く暗く汚れ切った泥が飛んで来るような感じがした。それは当たってはいけない。それは受けてはいけない。理性が、思考が、もっと深い何かが警告を発している。それは、ダメだ、と。
ならば力を出すべきだろう。身体能力の強化なんて間に合わない。製鉄所から七枚の花弁を引き上げる事も出来ない。ならば出来る事はただ一つ。衛宮士郎は魔術師ではない、いや、魔術師になる才能など無い。なぜなら衛宮士郎は魔術使いなのだから。
「投影(、開始(」
トレース・オン。その一言で全身の神経は裏返るように、通常の神経から魔術回路へと切り替わる。そして撃鉄が落ちるのだ。硬く鉄臭い無骨な撃鉄は落ち、体の魔術回路に魔力を流す。
作るのではない、創る、製る。イメージなど無い、創る。目的と性質はただ一つ、硬い。それだけだ。
魔術回路はただ一つの目的の為に稼動する。即ち、剣製。衛宮士郎は『盾』を創れるほど万能ではない。防御膜を張れるほど器用ではない。ならば剣を以って盾にする。その為に硬く硬く在る剣を創る。
一つでは足りない。それではあの泥を反らす事など出来ない。ならば複数有れば良い。設計図を変えろ、硬く在ると言う剣は一つではない。複数を以ってその剣であるのだと自分を騙すのだ。
撃鉄が落ちる。堕ちる。墜ちる。二七の撃鉄全てを落とし、二七の魔術回路全てに魔力を流し、作業を分担して高速で完成させる。さもなければ衛宮士郎に待っているのは死なのだと自分を追い詰める。
早く。速く。疾く。迅く。捷く。剣の丘から引き上げるべくも無い、ただ創る。
想像理念なんて捏造する。基本骨子はただ愚直であれば良い。構成材質はただ硬く。製作技術なんて識った事じゃない。成長経験などあるわけも無い。蓄積年月も不必要。工程など凌駕するほどない。幻想は硬く、剣に結びつけば良い。
その剣は硬く、大きく、複数あれば良いのだ。
即席の投影は不完全も良い所。だが、それで良い。アレを反らせれば良いのだ。魔術回路が疲労しようと滅茶苦茶になろうと、アレはイケナイのだから。
後ろでルヴィアゼリッタ様が眼を丸くしているだろうけど無視する。気を回しているほど余裕なんて無い。
泥は不完全な形態をした剣の群れに当たり、その巨体を元々の射線から逸れて行く。
「投影(、開始(」
もう一度自分を強くする言葉を吐く。両手には馴染んで来たのではないかと思えるほどの夫婦剣、干将莫邪。それを確りと両手で掴み重さと安定した感触を得て、悪いものがある方に駆け出す。落としてしまった買い物袋は許してもらおう。それどころではないのだから。
走る。奔る。良くないものはすぐ其処にある。それは異形。複数の動物の因子が、それがそれであるべき特徴が混ざった無数の動物の集合体。それは魔獣と、キメラと呼ばれる生物。
それにも言い分はあるのだろう。出来れば聞いてやりたいし、救(けてやりたい。けど、それにはもう理性も何も残っていない。それはもう、破壊衝動の塊でしかないのだと、心の何処かが理解していた。そして、それを葬ってやる事が俺に出来る事なのだと、俺がそいつを救える方法なのだと、心の何処かが理解していた。
「待ってろ。今、助けてやる」
干将莫邪を握る力を強くし、走って――振るった。
† † †
荒廃しているとでも言えば良いのか、そこは酷く汚れた場所だった。
魔術師にとって知識の泉であるはずの本棚には、酷く破けた本が散らばり、その周りに出来た猛獣の物と思われる爪跡が多数ある。死亡してから結構時間が経過したのか、それともこの部屋自体長く放って置かれたのか、埃が薄く机に積もっている。
本来ならば、わたしはこんな所に用はない。あったとしても嫌々が関の山。だからわたしは気分を害しながら、協会から依頼された仕事を片付ける。
任務の内容はありふれている。魔術師が突然死んだからその原因を探り、可能ならば排除しろ。それには当然――暗黙のルールとして、魔術が存在したと言う痕跡を持ちかえるか消滅させると言う仕事も含まれている。
正直に言えば、死んでいる魔術師とは言えその工房に入る事は避けるべきだろう。身の安全を思うなら。でもわたしの場合、そんな事言ってられないし、そんなへまをするほど考え無しじゃない。遺伝的な呪いとも思えるここ一番で失敗する癖は置いておいて。
それに何より、仕事には英霊であるセイバーが付いて来ているのだ。大抵の事なら対処出来る。それでも慎重にするのは変わらないけど。
まず、魔力感知をして異常に濃い場所を探す。
それで、見つけた。――ああもう、確定的だ。濃い魔力と同時に、酷く血生臭い匂いが感じ取れた。
酷く血生臭いそれが答え。魔術師の研究と死の原因。なんて事は無い、死亡した魔術師は失敗しただけなのだ。
悪臭と形容して良い臭気が荒廃した部屋に充満した。血生臭くて獣臭くて――そう、例えるならば狩りをした後のハイエナのような嫌な感じ。
それが在る。一〇畳ほどのこの部屋の向こう側に、そのケモノが居るのだ、間違いなく。
「凛」
「分かってるわよ、セイバー」
セイバーも理解しているらしい。それは、酷く不快だ。ケモノを生み出したであろう魔術師を殺した事でも悪臭を排出する事でもなく、ケモノの在り方が気に障る。
セイバーとタイミングを取り合って――扉を蹴破った。
わたしはすぐに魔術刻印を起動させ、ガンドを連射する。ガンドは物理的破壊力目的ではなく、その呪いによって呪われた者を弱らせる事が目的。物理的破壊力はその付加的効果でしかなく、メインではあり得ない。とは言え、わたしのガンドの破壊力は銃の弾丸に匹敵する程なのだ。それをケモノは前足の一振りで弾いた。
それにガンドに接触したと言うのに呪われた様子も無い。ああもう、なんだって協会の仕事はこんな厄介な事ばかりなのか。腹が立つ。
セイバーは完全武装し、ガンドを避けながらケモノに斬りかかる。そこで気がついた。どうしてそのケモノが気に障るのか理解できた。それは、そう創られたからだ。
理性など欠片も無く、ただ暴力と本能で動くのみ。狂戦士のように能力で役割のせいでそうなったわけではなく、ただ暴力と本能で動く。それだけなら普通の動物でも居るだろう。けど、そのベクトルが全て悪意に向かっているのだ。
フィルターが悪意に変換するわけでもなく、ただ在るだけで悪になる。大分士郎に毒されたのかもしれない。悪が許せないなんて、まるで正義の味方。
ガンドでセイバーの援護をしながら、そんな下らない事を思った。
「――凛。キリが無い」
全く、本当に厄介だ。悪であるだけなら未だしも、再生するなんて。しかもその再生力が尋常じゃない。まるでヴィデオを巻き戻したか早送りでもしたように、斬られて数一〇秒もしたら完治してるなんて、英霊でもそれに特化した者以外そうはいかないだろう。
「一気に勝負をつけます」
「えぇ、宝具を使って」
セイバーの不可視の剣が可視状態に変化すると同時にケモノは怯え、そして逃げ出した。悪いモノを撒き散らして。
その口から発生した大砲の砲弾のような黒いモノは、セイバーの剣に向けて発射され、セイバーがそれを防いでいる間にケモノは壁を破って逃げた。
その黒い砲弾は言うならば、ガンドを――いえ、フィンの一撃を数倍に強化、或いは増幅したような悪意と呪詛の塊。あんなもの普通の人、いや、平凡レヴェルの魔術師が喰らっても死んでしまうだろう。
「すみません。逃がしてしまった」
それにしても、だ。厄介だ。どうしてこんな厄介な仕事ばかりわたしに回って来るのだろう。聖杯戦争を勝ち抜いたからだろうか? 勝ち抜いたくせに、成績が伴なわないからだろうか? 冗談じゃない、セイバーを一人――正確には二人――で現界させていると言うのに、魔力の余裕なんてあるわけが無い。
――いや、止めておこう。愚痴を零しても仕方が無い。悪いのは逃したわたしで、逃げたケモノ。それを追って始末するのがわたしの仕事。
「今すぐ追撃したい所だけど、夜も遅いしこれじゃ見つからない。それに、思った以上に速い、あのケモノ」
魔力を感知したけど、血生臭い匂いは荒廃した部屋から高速で遠退いて行く。ケモノが破った壁から見上げれば破れたカーテン。アーチャーでも無い限り、見渡す事も出来ない闇が広がっている。
「あのケモノを放って置くことは出来ませんが、今は出来る事が無い。あるとすれば体を休める事ぐらいだ。残念ですが」
歯痒い。それよりもミスをした自分を責める。逃げると言う可能性を頭に入れなかったわたしと、逃がさないように牽制する事を忘れたわたしを。
だから今日は胸の中を燻らせて眠る。ケモノが人を襲わないなんて希望思わない、魔力回復の為に襲うかもしれないけど、切り捨てる。魔術師、遠坂凛はそもそも自分以外など如何でも良いのだ。そんな言葉の薄っぺらい仮面を顔に張りつけた。
本来ならそんな事すら心の贅肉。だけどそうもいかない、遠坂凛は正義の味方の師匠なんだから。
そんな茶化しで逆向けた心を静め家に帰る。明日決める。それまでは燻らせ続ける。覚悟しろ、ホワイト・ディと恨みは三倍返しが常識なのだと分からせてやる。
魔術師の基本は等価交換だけど。
† † †
金色とはとても呼べない汚れた黄色の毛皮に夫婦剣を振るうが、鋭くも毛皮同様に汚れたツメに弾かれ、反撃とばかりに尻尾に成っている鮮やかな色の毒蛇が噛みに来る。それを振るった剣のもう片方で薙ぎ、払う。蛇は斬れず、潰れもしない。魔獣として作り上げられた時点で通常とは比べ物にならない耐久力を得ているらしい。
反則だなんて心の中で吐き捨てて、呟く。
「同調(、開始(」
集中する。その爪に蛇に牙に、体中に流れる空きに。小源から汲み上げた魔力を体に浸透させる。本来、俺の技術では成功率が低過ぎて使い物にならない肉体の強化。けど、手段を選んでいる場合じゃない。強化でもしないとこれとは遣り合えない。
本番に強い方なのか、運良く強化は成功した。体中が熱くなって力が体中に行き渡るのが感じられて、神経が、感覚が鋭くなると言えば良いだろうか、風の音が大きく聞こえ、悪意が吐き気するぐらいに気持ち悪く感じられ、剣を握る腕への負担は軽い。
これなら、なんとかなるかもしれない。
「ハッ――!」
鋭く息を吐いて警戒し合って計っていた距離を詰める。莫迦みたいに体が軽い。力強い。
斬りつける、弾かれる。そして反撃に合う。蛇なんて水にも等しいほどの衝撃。干将莫耶を軽く弾いた左前足と当然ながら対になった右前足は、俺の体を殴りつける。
慌てて引き戻した干将で防いだものの、例えじゃなく、吹き飛ばされた。
自分で足を浮かせて衝撃を逃がしたと言うのもある。けど、そんな事を無視するぐらいに吹き飛ばされた。それで距離が開く。目測で約一二メートルほど。
聖杯戦争の初日、ランサーに吹き飛ばされたのを思い出した。それに比べれば上出来か。何しろ傷一つ無いのだから。
追い打ちであの泥が来なかったのが頭に引っかかったけど、アレだけのものだ、出すのに時間がかかるのだろう。
歪んでヒビの入った干将を投げ、それに続いて莫耶をその真後ろに投げる。そしてすぐさま両手に投げたばかりの夫婦剣を投影する。
投げた夫婦剣は呆れた事にその背にある巨大過ぎる翼の一扇ぎで速度を緩められ、前足での容赦無い一撃で硝子の様に砕け散った。俺が見た双剣の飛翔のように、弧を描がいて飛びはしない。俺にはまだそんな力を使えるほど双剣を理解し切れていない。
同じように砕けそうになる『何とか出来そう』なんて気持ちを必死で固める。
「I am the bone of my sword」
体は剣で出来ている。ならばその身は何よりも鋼(く、砕ける事は無いと。
それは衛宮士郎を強くする言葉。本気ではない。衛宮士郎にそれは使えない。だから、あくまでも暗示。衛宮士郎は強いのだと自分に信じこませる為の言葉。
双剣を振るう。両前足に合わせて、抜けた隙に合わせて。緊張で固まっていた体が解れて行く気がする。思い出した。双剣で防御する際、受けるのではなく流すのだと。金属音が鳴り響く。何秒感覚だろうか、少なくともコンマ数秒と言う世界であるのは間違い無い。
魔獣はただ前足で爪を振るい、俺は双剣で流し、斬りつける。時折不意をついて遣って来る蛇と羽、それに俺の頭なんて丸齧りされるだろう牙が怖い。
そう思った瞬間、双剣にヒビが入った。認識が及ばなくなったのだろう。そして前足で二撃目。双剣は砕け散り、蛇と牙が俺に迫る。
拙い。いや、拙いなんてものじゃない。投影なんて間に合わない。これは確実に死ぬ――――。覚悟した。相討ち狙いも良いだろう。ならば、じっくりと双剣の練度を上げる。牙が俺の顔を包み込もうとした時、光が奔った。赤々と輝く光は魔獣を撃ち、その巨体に穴を穿ち、吹き飛ばす。
知っている。それは魔弾。宝石に魔力を何日、何ヶ月、何年と込めた即席の儀式礼装。魔力を加工もしないで魔弾としてぶつけるなんて魔術師、俺が知っている限りじゃ一人。
「とお――!?」
言葉が出なかった。其処には俺が知っている彼女の姿ではなく、魔獣の咆哮で不快になる風に靡く金色の髪の彼女。その髪は縦にロールされ、チャーム・ポイントは大きなリボンだろうか。どうしてここに居るのか、どうして宝石なんて持っているのか、どうして魔術なんて使っているのか。全部が、分からなくなった。
「聞きたい事は色々とありますけど、今は目の前を片付けますわよ」
眼を細めて吊り上げた厳しい視線を魔獣に送り、彼女は言った。呆けた。呆けて、理解した。で、返事した。情けないぐらい弱々しい声で返事して、ゆっくりと練度を上げた双剣を両手に持つ。
「こっちも色々と聞きたいですけど、終わったらまず先に聞かれます」
そう云って怒り心頭とばかりの魔獣の前に立ち、攻撃を流す。流してアシストを待つ。怒り心頭で攻撃に回った魔獣に反撃するほど隙なんて見つからない。流しているだけでも腕が痲れ、地面に足が埋もれそうになる。
後ろから俺を掠めるほど間近にさっきとは違う黒い弾丸が飛ぶ。間違い無い、これは――ガンドだ。似ている。宝石魔術もガンドも強気なその態度も。
だから通せない。彼女を傷つけさせない。元よりそのつもり。けど、更に気合が入った。
正直に言ってガンドに効果があるとは思えない。ガンドを濃縮して拡大したようなヤツを撃ち込んできたんだから、効果があるとは思えない。ルヴィアゼリッタ様だって効果があるなんて思ってないだろう。ならばそれは牽制。俺に当たったらシャレにならないけど、魔力を込めて撃てばその衝撃で体が鈍るぐらいはするだろう。
その間に斬りつける。怒っていると言う事は、攻撃面では有利でも防御面はどうしても省みない為弱くなる。効果は薄いけど、僅かに刃が食い込むぐらいはする。
悲鳴を上げた魔獣はより怒り、その攻撃の激しさを増す。ついに、ギリギリで堪えていた線が切れた。爪は唸りを上げて剣を滑り、手の甲から肘の中間まで肉を引き千切った。
気にしない。正確にはするほど余裕が無いだけだけど、気になんて出来ない。
爪が切り裂いた腕の方で、丁度クロス・カウンター気味に剣を突き刺す。直後、絶叫と同時に蛇の尾が肩の肉を僅かに抉り、こめかみを裂いたけど気にしない。突き刺した剣を強く握り、力を込めて貫通させた。初めて確認出来る俺が与えた明確なダメージと罪。それを噛み締めて、文字通り歯を食いしばり、もう片方の剣で胴体を狙う。
が、それは魔獣のもう片方の前足で弾かれた。前足はそのまま戻らず、俺の身体に迫ってくる。片手は弾かれて背中の更に後ろ。片手は魔獣のもう片方の前足を捕まえていてすぐには動けない。精一杯身体を外らして、剣から手を放した。すると魔獣の身体が揺らぎ、身体が、攻撃線が落ちる。あぁ、手を放したのは失敗だったか、なんて思った時には胸から腹を数センチほどの深さで裂かれ、叩きつけられながら地面を滑っていく。その衝撃で片方の手にあった莫耶は砕け散り、硝子の悲鳴で啼く。
背中は心臓のように鼓動して痛い。四本の線で構成された紅い傷は灼熱している。同時に二七の魔力回路も灼熱させた。
「……投影(、開始(」
虫の鳴くようなか細くて情けない声を絞り出して、両手に双剣を作りだす。衛宮士郎が一番理解してるのはこの剣なのだ。これ以外で早く投影でき、且つ魔獣を倒せるほど練度が高く仕上げれる剣なんて鈍った頭じゃ思い浮かばない。
それに、俺が倒れてるとルヴィアゼリッタ様が危険になるのだ。早く、起きなきゃいけない――。だと言うのに、痛む身体は言う事を聞かない。痛いのなんてなんでもない、俺は痛いのも辛いのも慣れている。決してそれで感覚が鈍くなったりする事は無いけど、我慢出来るのだ。だから、衛宮士郎は立ち上がれる。
I am the bone of my sword.(
ならば爪で剣の表面を擦られたぐらい、如何と言う事無い。
立ち上がる。ガンドが隙を作り、魔弾が魔獣に穴を穿つ甲高い音が木霊する中立ちあがって歩く。足は震えていて走ったりなどしたら、膝から崩れるか地面を踏む事が出来ないに違いない。
だから現状で出来る最高速度で近づき、剣を振るう。先ほどの三分の二にも及ばない速度。それで歯を噛み締め、痛みを無視して出せる最高の速度。
「エミヤ、休んでいなさい! 回復出来ないのならば足手纏いですわ!」
その通りだろう。俺なんて半人前で、まだ足を引っ張るぐらいしか出来ない。でも、隙を作るぐらいなら何とかなる。足を留めるぐらいなら何とかなる。それに、言葉はキツくても、心配してくれていると分かるから頑張れる。俺は正義の味方になるんだから、こんな処で足踏みをしているわけにはいかない。
「同調(、開始(」
撃鉄を落とし切って干将莫耶を強化する――!
頭の中から悲鳴が聞こえる。警告音が聞こえる。
止めろ、止めろ、止めろ。と、無茶だと叫ぶ声がする。
言い訳する。じゃあ、大丈夫だ。無茶は出来る事。無理は出来ない事。だから、無茶をする。
「基本骨子、解明。構成材質、解明。構成材質、変更……ッ」
言っている間にも魔獣の手加減など無い。暴力は嵐のようにやって来て、俺が剣で防ぐ度俺の体の何処かを持っていく。
ガンドが牽制している。魔弾が穴を穿つ。翼がもげた、蛇の尾がもげた、腹が貫通した、魔獣が再生した。
「全工程(、完了(――――!」
聖杯戦争をする前に強化をするぐらい成功率の低かった強化は成功し、その変わりに頭の中の何処かが弾けた。
全ての音にノイズがかかった。視界にノイズがかかった。音が飛ぶ。視界が飛ぶ。それでも、衛宮士郎は魔獣を打倒する。
切れ味が強化された干将莫邪は切れ難いながらも、魔獣を斬り裂いていく。
前足を斬った。翼を斬った。角を斬った。蛇の尾を斬った。後足を斬った。腹を斬った。眼を斬った。耳を斬った。
前足が再生した。翼が再生した。角が再生した。蛇の尾が再生した。後足が再生した。腹が再生した。眼が再生した。耳が再生した。
衛宮士郎(が切り裂かれた。吹き飛ばされた。
ご丁寧にも、傷跡が交差している。深さは前回と同じ。内臓は切り裂かれてない。
干将莫邪は硝子の悲鳴を上げて砕けた。
「エミヤ! だから休みなさいと言ったのに……」
ルヴィアゼリッタ様がキレイな顔を歪めて射つ。魔術刻印が光ってガンドが飛ぶ。まだストックがあるらしい宝石が魔弾に変わる。魔獣が仰けぞる。穴が穿たれて再生する。
全てに、ノイズが、かかっていて、処々、吹き飛んで、良く、分からない。
意識が、全部、飛びそうに、なって、頭が、真っ白に、染まって、――ダメだ。
舌を噛んで意識が飛ぶのを防いだ。血が出たかもしれないけど、許容範囲だ。気絶しちゃいけない。衛宮士郎は――
何かを思おうとして忘れた。意識が薄く塗りつぶされる。
「士郎、もう少しだけ生きてて。すぐ回復させるから」
そんな声が半分意識が飛んだ状態で聞こえて、安心した。ああ、もう大丈夫だ。お前が来てくれたなら負ける筈ない。
それで、完全に意識が塗りつぶされた。
次に目が覚めた時空は暗く、安っぽい蛍光灯の光が寄宿舎の部屋を照らし、激痛が身体中を駆け巡っていた。
思考にも音にも視界にもノイズは無い。魔術の過負荷はすっかり抜けているようだ。
怪我は無い。無いのだが、神経や筋肉はしっかりと痛みの警告を発し、脳に送り続けているみたいだ。当分、痛みは引かないだろう。
「士郎。目が覚めたのですね?」
セイバーが、額のタオルを取替えてくれた。今のセイバーは春物のセーターを着て、踝まである紺のロング・スカートを穿いていて、とても似合っている。
「ありがとう、セイバー。セイバーが居るって事は、あのキメラ倒したんだな」
「はい。遅くなり申し訳無い、少々気配を追うのに手間取りました」
「いや、助けに来てくれて助かった、ありがとう。そう言えばルヴィアゼリッタ様――じゃなくて、あの金の縦ロールの娘は大丈夫?」
思い出して、慌てたような声で聞いた。
「はい。ミズ・エーデルフェルトなら元気です。多少傷はありましたが、魔術刻印が治したので今は傷一つないでしょう」
そうか、良かった。と呟こうとして、違和感に気付いた。いや、違和感と言うほど難しい問題じゃない。何故、セイバーはルヴィアゼリッタ様のファミリィ・ネームを知っているのか。
「言い忘れましたが、彼女が凛のライヴァルです。多少、凛から厳しい事が言われると思うので、覚悟をしておいた方が良いでしょう」
ああ、そうだね。ありがとうセイバー。塵、一片も残さずってばかりに怒られそうな気がする。
「では、今は痛みの回復に眠って下さい。少なくとも、起きているよりはマシです」
「遠坂が怒らない夢でも見て正夢を願うよ。おやすみ、セイバー」
「おやすみ、シロウ。良い夢を」
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