かぼちゃと夜



 ナイフでオレンジ色のかぼちゃを削ること幾星霜、案山子の脳みたいに中身をくり抜いて、赤いあくまの如きツリ眼と、ばか虎の如き狂暴な牙の並ぶ口を、皮を切り落として作り上げればあっという間にジャックオーランタンの出来あがり。食べれもしないかぼちゃを買うなんて、一体俺はどうしちまったんだ。いや、藤ねえのせいであるのは間違いないんだが。
 藤ねえは常識をあまり知らない代わりに何故かどうでもいい知識を仕入れている。普通の人は「ハロウィン? なにそれ」なのに対し、元気良く「とりっくおあとりーと!」などと叫んでチャイムを連続で鳴らした挙句、玄関の戸を叩きまくるような真似をするに違いない。日本に癒着していないイベントなんか知らないでもいいのに、なんでこんなことばかり。まあそれなりに振りまわされて、楽しくもあるんだけど。
 隣では遠坂が楽しそうにジャックオーランタンを作り、誰かに似させたらしいそれに赤い布で繕った外套を取りつけている。セイバーも作ろうとしているらしいが、あまり細かい事は不得意みたいで苦労してるようだ。ギザギザした眼と嘲笑ったような口はホラーじみて怖いといえば怖い。定型のツリ眼とトゲトゲ口よりも、子供は怖がるかもしれない。
「セイバーちゃん、こういうのは苦手なんだ」納得したように言う。「人間、万能じゃないもんねー」
 いつもはほとんど何もしない藤ねえも、楽しむべきことは楽しんでやるとかぼちゃをナイフで刻んでいる。深く愛し憎んでいると公言した虎をモチーフにしているのか、頬には長い刻み込みが左右三本ほど。性格が前面に出ているのか左右対称を微塵も心がけていない。出来あがったとばかりにナイフを離して極太とでかいフォントで印刷されたマジックを取り、かぼちゃにギザギザと黒線を描きこんでいく。それはもはやジャックオーランタンじゃない。かぼちゃの母ととらの父が結婚して生まれた怪人、タイガー・ザ・パンプキンだ。虎の模様を持ったかぼちゃ、タイガーザ・パンプキンは自慢の水っぽい中身を食わせて人を不快にし、そのねちゃねちゃした種を噴き出して生物に襲いかかる、人畜無害に等しい怪物なのだろう。
 桜は丁寧な手つきで細かく削っている。細部にまでこだわり狂気に取りつかれたようなかぼちゃの顔を彫りこんでいる。草書体で梵字なのか俺の知らない外国の言葉なのか判らない言葉を後頭部に刻んでいたり、随分と念の入った作りだ。魔力でも放りこめば使い魔として目覚めそうな精巧さが怖い。
 何気なしに作られてしまったが、五つものジャックオーランタンはどこに並べれば良いのか。玄関に五つの不揃いなかぼちゃが並ぶなんてなかなか不気味過ぎる。そもそもこの純和風の屋敷にハロウィンが似合うかという疑問は藤ねえの勢いで初期の彼方に吹っ飛んでいっていたのだが、今更ながらに考えると遠坂の洋館の方がらしくて良いんじゃないのか。まあ、既に手遅れで王手どころかと金や銀、角などがぞろぞろと回りを囲んでいる状態で言い出せるわけもないんだけど。
 テーブルの真ん中には山のようにかぼちゃの欠片がどっさりと積まれている。土曜日の午後をたっぷりと使って作ったジャックオーランタンの後片付けをして、そろそろ夕メシの準備をしないと遅くなりそうだ。空が真っ赤に燃えているからもう五時も過ぎているだろう。さて、と冷蔵庫の中身を考えてまったく足りない事に気付いた。昨日は商店街に下りていったが、買ってきたのはかぼちゃや明日作るクッキーの材料だけだ。遠坂とセイバーは一応遠坂家在住だが、半居候というか食客というか、ようするに藤ねえと同じような立場に収まっている。一応、桜と同じように食費は振り込んでくれているのだが、日曜日だと下手すれば三食食べていくのはどうだろう。
「商店街に入ってくるけど、食べたいものとかあるか?」
 希望は取り入れるけどその通りになるとは限らない。特に時間のかかる煮込み系などは先に言っておいてもらわないと却下になる可能性が高い。それに値段の高いものや、夏に冬魚が食べたいなどと言う無茶苦茶な願いは当然に却下だ。
「そうね、今日は寒いからあった買い物が良いかな」
「私はシロウが作ったものならなんでも」
「朝ご飯が洋食だったから、夜は和食が良いかな」
「わたしはこってりより、あっさりが食べたい気分です」
 纏ってるようで纏っていないこのコンビネーションはどうだ。方向性としては温かい和食でさっぱり系だな、頭に入れて、玄関に向かう。
「悪いけどかぼちゃ片付けといてくれ。それと、冷蔵庫にある材料で副菜作っといてくれると助かる」
 桜が元気に返事するのを見届けてからスニーカーを履き、玄関を出る。
 じゃが芋が安かったから、主菜はじゃが芋をふんだんに使った野菜と鶏肉の蒸し焼きの薄だし餡かけにした。

 ハロウィン当日は朝から大忙しだった。子供に脅迫されて要求されるお菓子を作らなければいけないからだ。朝からクッキーの種を作ってはオーブンに入れて焼き、それにチョコレートで飾りつけて、なんてことまで何故かやっている。クッキーは買ってきた普通のかぼちゃ風の型抜きを加工して使っている。やや可愛い雰囲気のあった型抜きにホラーの空気をを刻み込むのはそれなりに苦労した。なにしろどうやっていいのか判らなかったのだから。
 俺が作ったクッキーの生地を使って遠坂たちは生地からかぼちゃ軍団を生産している。型抜きで余ったクッキー生地は練り直してもう一度伸ばし、再度くり貫いてから余ったものでその人独特のセンスの作品を作り上げてもらい、『当たり』を作ることにした。まあ、当たりと言っても普通のクッキーよりも大きくて形が違うだけで、それを引いたからなにか特典があるわけでもないのだが。
 正に山と積めるほどのクッキーを焼き、焼いている時間を使ってランプなどを使って作ったジャックオー“ランタン”を玄関先に来ても良いよと言う目印に一つと、普段は花瓶の置いてある棚に二つ、テーブルの真ん中に一つを飾って、最後の一つ――怪南瓜タイガー・ザ・パンプキンは藤村家に寄付されることとなった。
 湯煎して溶かしたチョコレートでジャックオーランタン・クッキーに五人で表情を書きこみながら、甘い匂いの漂う中、誰かの腹が鳴るのを聞く。……まあたしかに、忙しくて大した量の食事もとっていなかったし鳴るのも判ろう。けど一度鳴り始めた腹は連鎖して誰かの腹を鳴らしていく。
「俺は台所でなにか作ってくるから、みんなは続けててくれ」
 赤い顔をした面々を背に台所へ入っていく。別にごく普通の人体機能だから恥ずかしがらなくても良いと思うんだが、そこはそれ乙女心というやつらしい。
 炒り卵を作ってマヨネーズとケチャップで和え、半分にした食パンで挟むとそれを二つに切って更に乗せていく。更に炊飯器に残っていたご飯にかつおぶしと醤油にちりめんじゃこを放りこむと、しゃもじで掻き混ぜてからおにぎりを作って海苔で巻いていく。あとは適当に野菜を刻んでオリーブオイル、塩、黒胡椒、レモン汁をかけて掻き混ぜればサラダの完成だ。
 簡易サンドウィッチとおにぎりにサラダ、まあ、早くできて当然のものではある。あるけど、不味くはないはずだった。まあ、手間をかけてないからはっきり美味いとも言いがたいのだが、そこは最高のスパイスで補っていただかないと。
 テーブルに配置すると全員がおにぎりをいの一番に手に取った。たしかにこの中で一番腹に溜まりやすいのはそれだろうから、選択としては間違ってない。けどどうだ、この普段の食事時よりも緊張感に満ちた修羅場の如き雰囲気は。さすがにおにぎりの一つ二つで喧嘩なんてことはないだろうが、口よりも手を進めて欲しいと思うのは間違いなんだろうか。
 なんだかんだと早いペースでサラダボウルに残っていたレタス一枚も無くなってようやくクッキーのチョコレートが乾くと、チャイムが鳴った。玄関に赴いて戸を開けると、そこには五頭身ほどのジャックオーランタンが一人、吸血鬼と聞いて一般的にイメージされる黒マントの怪人が一人、黒いローブを頭からすっぽりと被って竹箒を持った少女が一人楽しげに立っていた。
「トリックオアトリートぉ!」
 一斉に叫ぶように言った子供の高い声にちょっと圧倒されながら、顔が笑っていくのが判る。
「オーケイ、悪戯されちゃかなわない」
 居間に戻ってクッキーを小分けにすると、先ほどの三人に献上した。
「ありがと、おにーちゃん!」
 ぱたぱたと子供が駆けていく。クッキーの五枚ぐらいであんな笑顔になれた日が俺にもあったんだろうか。
 居間に戻って、もうそんな時間かと傾いてきた日を見て思った。
「ずるいじゃない、士郎。わたしも渡したかったのに」
 笑顔で言う遠坂に続いて桜やセイバー、藤ねえも同じように言う。たしかに悪かった。あんな笑顔、一人占めにする方が間違ってる。
「ごめん。次は下がってるから、誰か行ってきてくれ」
 それにそろそろ、自分たちの用意もしなくちゃいけない。その為にクッキーを焼き終わってからこっそり甘さ控えめのケーキを焼いたのだから。いい加減作るだけにも飽きてるだろうから、きっと喜んでくれると思う。
 日が落ち始めるとハロウィンの空気になるのか、チャイムを鳴らして尋ねてくる子供たちがたくさん来ていた。その度にセイバーたちはローテーションで出ていき、自分たちの作ったクッキーを渡しては笑顔で帰る子供たちを見送っている。
「さて、じゃあメインディッシュに取りかかりますか」
 俺と桜は台所に立って自分たちが食べる料理を用意する。こういう時は速く作れて派手な中華が優れてるとも思うが、ハロウィンって雰囲気でもない。
「ですね。今日はわたしがメインで良いんですか?」
「ああ、さすがに和風が主菜じゃちょっと困るしな」
 言いながら生姜を針に刻む。キュウリも同じように千六本にしてから酢と塩で揉み、箸休めの完成。洋風のわりと脂っこいものにはこれぐらいすっきりした方がいいだろう。
 桜はボウルの中の挽肉とタマネギをこねて粘り気を出し、小さく丸めては空気を抜いて弱火のフライパンに敷き詰めていく。本当なら顔を作ったピーマンにでも詰めればハロウィンらしいのだろうけど、かぼちゃ彫りで飽きた身にそれを求めるのは難しい。
 白髪ネギとミョウガを鷹の爪と塩で漬けた白菜の漬物で巻き、小物を作り終える。大した材料があるわけでもないので後は箸休めではなく、食事が進むような副菜を一品作ることにした。
 片面が焼けたハンバーグをフライ返しでひっくり返し、蓋をしてから一分ほどすると桜はその中にブイヨンをひたひたになるぐらいまで入れると、暖めてからトマトベースのソースを追加した。どうやら単純にハンバーグにするわけではなく、煮込みハンバーグにするらしい。だとするとあまり脂々しているようなものでもなさそうだし、箸休めはやや失敗しただろうか。
 どうやら向こうの方は盛況らしく、次々とチャイムが鳴ってはクッキーの包みを誰かが嬉々として取っていく。さて、夜もそろそろ深まっていていて子供たちもそろそろ途切れてくる頃だろう。そうしたら今度はこっちの子供たちをどうにかしなくちゃいけない。
 食器棚から区切りのある小鉢を出して、それに生姜とキュウリの塩酢揉みとネギとミョウガの白菜漬け巻きをよそり、小さな皿に副菜のあさりとじゃが芋の蒸し物を盛りつける。味噌汁も作ろうと思ったが、どうにもハロウィンという雰囲気に合いそうも無いから作るのを止めておいた。まあ、酢のものだとか白菜の漬物を使っている時点で雰囲気も何もあったもんじゃないのだが。
「クッキーがなくなりましたよ、シロウ。どうしますか」
 セイバーが向こうから顔を出し、やや困ったように――大分嬉しそうに言う。
「ん……。じゃあ、今来てる子供たちには俺たちの分を出してくれ。それが終わったら表のかぼちゃ中に入れてくれればいいから」
 肯いて首を引っ込め、セイバーはテーブルに残っていた包装袋にクッキーを入れてリボンを結んだそれを三つ持って駆け足気味に玄関へと向かった。
「さてと、じゃあ並べますか」
 煮込みハンバーグが出来たのか、俺の独り言に桜が返してコンロの火を止める。食器棚から深くて大きい器を出して渡すと、盛り付けてその上からフライパンに残っていた煮込み汁をたっぷりと注ぎかけた。
 ご飯はそのまま茶碗によそるのだから、結局のところ雰囲気なんて考えても仕方が無かったのかもしれない。でも夕食は軽めのパン食、というのがあまり納得いかないのも事実だし、そう考えると変わり映えのしない食事というのが一番良いのだろうか。
 甘い匂いの広がるテーブルをぱっぱと片付けて配膳すると、その匂いに釣られたかいの一番に藤ねえが舞い戻ってくる。甘いクッキーの匂いに紛れているのに、よくもまあ食事の用意が出来たのを察知できるものだ。呆れるのと同時に感心した。
 表に出してあるジャックオーランタンをしまい終えたのか、セイバーと遠坂も戻ってきてテーブルの定位置に座る。馴染みすぎて生まれた時からの家族だと錯覚するほど自然に。
 いつもと比べて特別豪華というわけでもないが、それでもまあそれらしく。
「いただきます」
 全員できちんとお百姓さんにお礼を言ってから食べ始めた。

 夕食を食べ終えて食器を洗うと、食欲が満たされたせいかゆったりとした気分になる。ぼんやりとしていると鳴るケトルに気付き、火を止めてヤカンから茶葉の入ったティーポットに冷まさず熱湯を注いだ。遠坂のお気に入りらしい茶器からアッサムの香りが漂う前に蓋を閉め、茶漉しとティカップを人数分お盆に載せて今に運ぶ。
「レモンとミルクは無いからな」
 お茶請けのクッキーにはまだ誰も手をつけていない。それも当然か、藤ねえやセイバーはもちろん、遠坂と桜も良くお代わりをしていたから。
「ありがと。わたしはストレートで飲むからいいわよ」
 遠坂とセイバー、それに俺はストレートで飲むことが多く、桜は砂糖を一杯か二杯、藤ねえは二杯ほど入れて飲む。
 きちんと茶葉を蒸らしてからティカップに赤色を注ぐとその香りが居間に広がる。まだ熱いそれは下手に飲めば火傷してしまう程なのに、喉が渇いていたのか遠坂は息を吹きかけて冷まし、カップを傾けた。
 藤ねえと桜は二杯ずつカップに砂糖を入れてから掻き回し、飲むのに適した温度まで待つ。セイバーはやや熱めが好きなのか、一分ほど待ってから口を付けてクッキーを齧る。きちんと歯応えのあるクッキーに出来あがったらしく、噛まれるとさくさくと美味そうな音がした。
 適度に冷めた紅茶に口をつけると、ほんのりとした甘みと香りに舌を引き締める渋みが広がる。蕾が閉じるようなこの感覚はどうにも得意じゃない。とは言ってもこのほんのりとした甘さが美味しいと感じるから砂糖やミルクを入れないのだけれど。
 桜は砂糖二杯でちょうど良かったらしく、頬を綻ばせて喉を鳴らした。
 藤ねえはらしくもなく猫舌なのか、適温よりもややぬるくなった紅茶を口にする。熱い味噌汁とか飲んでいたような気がするのだが、はてさて。この人は未だ掴めない部分が多過ぎてどうにも理解し難い。
 時間の経過が早いのか遅いのか、時計が回るのは一秒にどれほどなのか、曖昧な意識では随分と判り辛い。丁寧に漉して作った泥にまみれているような感覚が前後すら危うくする。
「ん……」
 時計を見ればまだ八時二十三分ほど。大して時間は経っていない。点いたTVからはバラエティ番組の笑い声などが聞こえてくるのに、居間で笑っているのは一人もいない。ただ微笑んでいるような、ホットチョコレートみたいな雰囲気だけが漂っている。
「そろそろか」
 腹もそれなりに落ち着いてきただろうと考えて、秘密裏に作っていたものを取りに台所に立った。クッキーを焼いた後に突っ込んで放っておいたパウンドケーキを崩さないようにまな板の上に出して切る。自信は無かったが一応工作しておいた模様は成功しているらしく、やや歪なライオン風の猫科動物がパウンドケーキの中で吠えていた。
 本当ならやや緩めのホイップクリームやらあれば良いんだが、そんなにきちんとした準備は無い。せいぜい有り合わせのフルーツでも添える程度だ。本当ならサラトガクーラーでも出せればらしいんだけど、生憎と用意があるのはミルクセーキだけ。冷えたものをグラスに注ぎながら、ノンアルコールのホットエッグノッグにでもするべきだと後悔した。
「はい、お疲れ様でした」
 そう言ってみんなにパウンドケーキに無塩バター、砂糖、シナモンでソテーしたりんごの付け合わせを出す。一応それらしく皿を精一杯飾ったつもりなんだが、反応は薄い。
「う……やっぱり飾り付け拙いか?」
「ううん、ちょっとびっくりしただけ。こそこそしてたのは知ってたけど思ってたより上等だった」
 パウンドケーキを口に運んで、もぐもぐとやってから遠坂は言った。
「はい。このケーキは美味しいです。酸味の残っているりんごと合わせるとまた新たな味が楽しめる」
 中心のライオンを残すよう食べながらセイバーは嬉しそうに笑う。
「嬉しいですけど、こんな時間に食べるとちょっと明日が恐いです」
 たしかに胃に残りそうな感じではある。味的にはさっぱりしてるとは言え、けして軽くはない。
「おかわりー」
 まあ、そうだ。感慨もへったくれもなく速攻食べておかわりを要求する奴だよこの虎は。
「おかわりは一人一つまで。隠れて作ってたんだから量なんて無いぞ」
 パウンドケーキを切り出して焼いている時間はないから甘味のあるりんごをうさぎにする。
「ほら。おかわりのりんごはうさぎだからな」
「ありがと、士郎」
 どちらが早いか、藤ねえは言うと同時にフォークを突き刺していた。
 俺を含めた四人もきっちりお代わりをし、パウンドケーキは見事さっぱりと消えた。

 秋の夜は見なれた夏の空よりも深くて暗い。深淵を覗きこむようなその黒は、わずかに星の瞬きと月を許すだけだった。冷えた外気は針のように、油で汚れたツナギを易々と突き通してくる。真夜中の鍛錬を終えて土蔵から出るとその静かさがどうにも冷たい。ただ、熱くなった体にはそれが心地良かった。
 ツナギのジッパーを開けて体を外気に晒す。汗で濡れたTシャツが急速に冷たくなる。やや肌寒くなるまで呆としていて、気付けば寒いぐらいになっていた。暖かい気候の地域とはいえ秋が寒くないわけではない。
「っくしゅん! このままじゃ風邪ひくな」
 目がしょぼしょぼするしさっさと布団に突っ伏したいが、風呂に入って暖と疲労をとることにした。まあ、暖め直さないことには温くて逆に風邪を患ってしまうだろうが。
 カランを捻ってお湯を出し、湯になるまで待ってから浴槽に注ぐ。その内に溢れてきたら湯を掻き混ぜてカランを逆に捻る。約四十度ほどの湯に浸かると、俺の体積よりも埋まっていた湯が溢れて排水溝に落ちる。
「っ、あー……。ごくらくごくらく」
 冷えた体が温まるのが判る。湯の熱が感電したみたいに染みる。
「ん……やばいな、これ。このまま寝ちまいそうだ」
 両手ですくった湯を顔に浴びせて、半分寝入った脳を叩き起こす。乱暴に叩きつけると湯もなかなか固くて痛い。
 さて、寝ちまわないうちに体を洗わないと。
 スポンジを手にとって石鹸を擦りつける。表面が白く埋もれるまで擦りつけると何度か揉み解して首筋に押し付けた。やや痛いぐらいの感触が洗っているという感じがして心地良い。そのまま左腕に落として最後に右足の裏を洗うと、風呂の湯で体を流した。洗顔用の石鹸を手にとって泡立てて顔に塗ったくって鼻にお湯が入らないように洗面器を傾ける。最後に頭にも豪快に流してからシャンプーを一押しして頭をかき混ぜた。大して気も使わずにまた洗面器を逆さにして泡を落とし、面倒くさいながらもコンディショナーとリンスを順番につけては洗い流した。遠坂曰く、どちらか片方だけでは甘いらしい。
 最後にシャワーを浴びて風呂の栓を抜き脱衣所に出る。滑稽ながら温まった体にはこの冷めた風が嬉しいらしい。さっきとは真逆だった。
 寝巻きに着替えて脱衣所の廊下に出る。一層ひんやりと冷たい空気が心地良くて、いつの間にか縁側まで歩いてきていた。
 さっきとまるで変わっていない月夜が空に浮かんでいる。冷たく恭しい提月の霞んだ明るさが物悲しい。星は空の深くに飲み込まれてしまったようで姿が見えない。瞬きさえ許されない。まるで、望んだ理想に届かぬ人のよう。
「まだ起きてたんだ」
「遠坂こそ。夜更かしは美容の大敵じゃなかったのか」
「別に。魔術師なんだから徹夜なんて当たり前でしょ。ま、女を捨てたわけでもないけど」
 なんとなくなのか、遠坂はやや寒そうな薄い寝巻きのままで俺の横に座った。上にカーディガンを羽織っているわけでもなく、震えた肩はその寒さを物語っている。とはいえ俺にも貸せるような上着がないからどうしようと考えて、とりあえず応急処置として仕方なく抱きしめることにした。
「寒いだろ、早く戻ったほうがいいんじゃないか」
 一応、風呂に入ったばかりなのと暗さで顔が赤くなってるのは目立たないはずだった。すぐにばれたのか、遠坂は意地悪そうに笑っていたが。
「いいわよ、別に。こうして士郎が暖めてくれるんでしょう?」
 うわ、こいつ。なんて恥ずかしいことを真顔で言うんだ。せめて意地悪そうに笑ったままだったら悪態でも返せただろうに。やばい。完全に手の平の上でモンキーダンスしてる。
「いいぜ、暖めてやる。嫌だって言っても暖めるからな」
 ちくしょう。声が震えてた。喉が上手く伸縮しない。舌がなめらかに滑らない。脳が速く回らない。どうしてこんなに俺は決めれないんだ。
「――うん。じゃあ、ちゃんと暖めてよ。腕が前まで回ってないじゃない」
 俺の手を掴んで遠坂はそれを後部座席のシートベルトみたいに腹部で指の隙間を合わせる。自然と姿勢は前屈みになって、遠坂を包むようになった。
 落ち着かないのと脳が働かないので何も言えなくなって黙っていた。どうせ拙いことを言うのならなにも言わないでぼろをこぼさない方が良いと思ったから、ただ緩く抱きしめて霞んだ空を見上げていた。縁側から斜めに見上げれば、雲さえ遥かに消えた深淵が広がっている。掠れた月を思い出して、その一点だけの白を眺めていた。それだけで、暖かくて冷たい感触に落ち着いた。
「寒いな」
「寒いわね」
 なんとなく口に出た言葉に返してくれる相手がいる。それがお天道様に威張れるほど幸せなことだと思えて、嬉しかった。
「冷たいな」
「冷たいわね」
「一緒に寝ようか」
「寝ないわよ、莫迦」
 じゃあ、改めてお疲れ様でした。また明日。



――Day over.



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