ドロップ



 セイバーはいつも日が上り切らないうちに目覚める。しかし、この日はなお早くに目を覚ました。季節が夏とはいえ辺りはまだ明るくなく、薄暗い青さがまだ冷たいアスファルトの色を濃くする。彼女は昨日の夜、いつもより早めに就寝したために早い時間に起きた。それというのも、今日は士郎と一緒にプールに行く約束をしているからだった。彼女のマスターである凛と一緒にではなく、士郎とセイバーの二人きりで、だ。凛は間の悪いことに魔術師のしての仕事があり、安易に断れば信用の問題にもなるため、プールに行くことができなかった。
 起きてすぐにセイバーはトレーニングウェアに着替えてベッドから抜け出し、静寂のリビングを抜けて庭に出た。そして二十分ばかりストレッチしてから、ほぐれた身体で柔軟性を使わなければ出来ない体術を繰り出していく。それが終わってから技を繋ぐ一連の型を何度も練習し終えた時には日が昇り、空は明るく、気温も高くなっていた。彼女は髪からトレーニングウェアで包まれた身体まで、汗でびっしょりと濡れていた。
 ようやく凛が低血圧な体に鞭を打って、ベッドから這い出し牛乳を一気飲みしている時にセイバーは庭から戻り、朝の挨拶を交わして浴室に直行する。汗のせいで脱ぎにくくなったトレーニングウェアを脱いで洗濯機に放り込み、給湯の温度を四十二度に上げてからコックを捻った。すぐにはお湯の出ない古いシステム特有の冷たい水で頭を覚ましてから、お湯を浴びて水で冷えた体を暖め、彼女は汗を流す程度に体を洗って浴室を出た。
 セイバーが頭にバスタオルを巻いてリヴィングへ出ると、キッチンに立っている凛からよく冷えた麦茶を渡された。汗を掻き、さらにシャワーで汗を流した彼女にはありがたかったから、礼を言ってゆっくりと飲んだ。
 それから五分ほどしてセイバー側のテーブルに並んだのは、イングリッシュ・ブレックファストだ。朝は――いや、朝からしっかりと食べたいタイプのセイバーには嬉しい配慮だった。いつもは凛が食べるのと同じコンチネンタル形式であったりカップ麺だったり、ひどい時には無かったりすることもあるのだが、今日はたまたましっかりと用意してくれたらしい。時間に余裕があるせいだろうか。
 セイバーは食事の挨拶を日本風に手を合わせて、麦を作った人や鶏を飼育している人たちなどに感謝してから、バターナイフでトーストにマーガリンを塗りつけ、口にした。
 その日の朝食はどれも美味しくできていた。凛が手を入れる余地の無いシリアルすら彼女が美味しく感じるほどのもので、こまめに油をふき取りつつ焼いたベーコンは香ばしくカリカリとしていたし、きめの細かい絹挽きのソーセージもきつねの良い色に焼かれていた。白と黄色のハッキリした目玉焼きは彼女好みに固めの半熟だったし、オレンジジュースも百パーセントの彼女が好きなメ―カーの品だった。たしかに朝食には満足したのだ。しかし、彼女は現在、満足しているような雰囲気ではなく、眉をひそめてとても悩んだ様子で唸っていた。
 その原因は彼女の眼前にあった。いや、眼前にあるすべてが原因ではないのだが、現実的手段として八つ当たりが出来る存在とするのなら――つまりは物質的に破壊できる目標がすべてというのなら、原因は彼女の眼前にある。セイバーにあてがわれた一室の角にあるクローゼットが唸りの原因である。その中には飾り気のない白いブラウスが幾つも並び、その中に紛れて他の服がこっそりと並んでいる。ブラウスと同じシンプルなワンピースや、前面にプリントの入ったTシャツ、それと、場違いにも思える豪華な装飾過多のエプロンドレスが一着だけ。どれを着るかで彼女は悩んでいた。
 せっかくのデートなのに、いつもと同じでは面白みに欠けると凛に言われ、普段なら即決でブラウスとスカートに決めるところをセイバーは迷い、決めかねていた。普通に考えればワンピースで手を打てば良いだろう。けれどそれでは期待しすぎている気がするし、かといってプリントの入ったTシャツではラフ過ぎる。とはいえ装飾過多のエプロンドレスではあまりにもだと、セイバーは真剣に睨みつけて悩み、迷った結果、それが恐らく最善であろうと、凛の服を借りることにした。
 幸いにもセイバーと凛のプロポーションはそう違わなかった。それを思いだし、決めた彼女は散々どれを着ようかと睨んで迷っていたクローゼットを閉め、凛の部屋に向かった。
 話を聞いた凛はセイバーのクローゼットにあったワンピースが清楚な感じで似合っているのに、などと思っていたが、自分で彼女をコーディネートできるのも一興と、自分のクローゼットとタンスをあさり始めた。派手めの物と赤い衣服が多い中で、数少ないそれ以外のものを収めたタンスの一段とクローゼットを真剣に睨みつけ、凛は心中で唸る。どれもこれも着こなすだろう。シックな黒いものとて合いそうだし、完全武装形態時の姿からして青も似合うだろう。格好としては女の子らしいものはもちろん、ボーイッシュだって簡単に着こなすに違いない。女性を主張するものはさすがに発育が足りないが。
 凛は自らに架した条件から上着にノースリーブとシャツを選び、下は膝辺りまでのデニムスカートを穿かせることにした。セイバーは凛が選んだその服を体に当て全身が映る鏡で見てから、満足そうに頷いた。
「さすが凛だ。これなら重くも軽くもない」
「そうでしょ? それなら朴念仁の士郎でもすぐに可愛いって言うわよ」
 くすりと凛は笑いながら言い、セイバーはその言葉で微かに顔色を赤くする。以前のように闇雲に否定しないのは、凛が相手である場合はそれが藪蛇だと解っているからだ。
「それと、髪を結わないで行きなさい。スイミングキャップ持ってないんだから」
 というよりも、セイバーぐらいの女性がスイミングキャップを被ること自体、稀だろう。
 彼女は服を棚にかけ、髪を結おうとしていたところで止まる。
「何故でしょう。別に結っても問題はないと思うのですが」
「まあ別にいいんだけど。流した方が服に合ってるかなって思っただけだから」
 そう言われてセイバーは髪の毛を覆っているバスタオルを剥いでから、鏡の前で髪をお団子状に纏めてから後ろにやり、何秒か止まる。今度はその髪を手放して流した状態で何秒か止まった。そして彼女はそのまま顎に手を当てて悩み始め、体にノースリープとシャツを重ねて当ててから同じようにする。
「成る程。髪を下ろした方が良いのかもしれませんね」
 そう言って再度頷き、セイバーは凛に重ねて礼を言ってから自分の部屋に戻った。
「……ちょっとサービスし過ぎたかな」
 彼女が士郎がなるべく可愛いと思いつつも、惚れこまないという条件で選んだ服は、それ自体は問題なかった。ただし、セイバーが着なければだったのだが。髪を下ろして嬉しそうに笑う彼女はひどく魅力的で、朴念仁と知っている士郎でも危機感を抱く。わりと男の子の部分が残っている彼が、セイバーの魅力に抗えるだろうか?
「ま、わたしがさせはしないけど」
 せっかく捕まえたパートナーになり得る素材を逃がしはしないと、凛は自分の準備をしながら呟いた。

 セイバーが士郎とプールに行く約束の時間は午後の一時だった。プール自体は午前中から営業しているし、士郎とて午前中から行っても問題ないぐらいの金額は所持しているけども、一日中水に浸っていてはふやけてしまいそうだから、という理由で士郎たちは行くのを午後にした。しかし、セイバーが衛宮家に行くのは午前の十一時だ。昼食を士郎の家で一緒にとり、一時間ほどゆっくりとしてからプールへ向かう予定だった。
 午前の十一時ともなれば、日は高く上っている。青く晴れた空から太陽の光が地面を照らし、その熱を吸収したアスファルトは熱気を立ち上らせて暑さが蔓延する。幸いにもその日はそれほど湿気が高くなかったから不快感は少なかったのだが、暑いことにかわりはなかった。
 いつもと違い、結わずに下ろしている髪をセイバーは一度手で払った。風が無いせいで髪形が乱れることもないのだが、髪形が変わらないでずっと同じため、当たっている部分に熱が篭もるのだろう。
「今度はリボンで縛ったほうが良いのかもしれませんね」
 右手に持ったバッグを探ろうとして今はリボンもゴムも持ってきていないのを思い出し、セイバーはもう一度だけ髪を払ってまた足を進め始めた。
 衛宮家の近くまでくると、アスファルトに水を撒いている桜の姿があった。ずいぶんと年季の入ったひしゃくと木のバケツを使い、上手く水を散らし、放っている。
「こんにちは、今日も暑いですね」
「こんにちは、サクラ。そうですね。暑いのも嫌いではないですが、汗を掻くのは少々辛い」
 濃く染まったアスファルトからは熱気が取れ始め、あと少しもすれば涼しくなるだろう。しかし、風が無いため縁側にぶら下げられた風鈴はまるで揺れなくて、それがかすかに物悲しい。
 桜とセイバーが玄関先で話していると、戸が開いて中から士郎が出てきた。手には二つのグラスを持っていて、中には琥珀の液体が八分ほど注がれている。
「ごくろうさま、桜。セイバーも――」
 グラスが結露して一目にも冷たいと解る麦茶が入ったグラスを持ったまま、士郎は固まった。髪を下ろした彼女を見た瞬間、ゼンマイが切れたように動かなくなる。
 セイバーはそれを見てやっぱり自分の恰好がおかしかったんだろうかと自分の体を見下ろしたが、特におかしな場所は無かった。なら自分自身だろうかと首を傾げそうになった時、桜が士郎の額を指先で軽く叩く。
「ダメじゃないですか先輩。女の子はオシャレしたら褒めて欲しいんですよ」
 だから、ね。と付け加えて、彼女は士郎の手の中からグラスを奪い取り、セイバーに一つを渡して自分で一つを飲んだ。グラスを受け取ったセイバーはそれをバッグを持っていない左手で持ち、少し傾けて喉を潤す。桜にちょっと頑張ってしまったことを当てられて、少しの気恥ずかしさもあり、グラスで顔を隠すようにセイバーは傾けた角度を高くして麦茶を飲み干した。
「あー……うん。似合ってるよ。いつもの結った髪もキレイだけど、それも凄く可愛いと思う」
 言ってから少し照れくさそうに、士郎は詰まったような息を吐いた。
 言われたかったセイバーは言われたで、褒められた嬉しさと正面から殴りつけるような士郎の素直さに気恥ずかしくなって顔を赤くした。それを隠すように頬をグラスとバッグを持った手で隠したのだが、顔の赤みは頬から顔全体に広がっていて隠しきれていない。まるでお見合いのような気まずい沈黙が下りる中、動けるのは桜だけだった。
「じゃあ水撒きも終わりましたし、中に入りましょうか。セイバーさんも歩いてきて暑いでしょう?」
 そう言って桜は水の無くなったバケツを玄関の脇に置き、戸を開ける。まだ麦茶の冷たさが残ったグラスが生温くなる前に、セイバーは居間へと上がりこんだ。
 深くて大きなガラスの器には、一口サイズに切られたスイカがどっさりと盛られている。その脇にフォークが二つうつ伏せに寝ていた。士郎はセイバー用にフォークを渡し、彼女は切られたスイカを突き刺して口に運ぶ。しっかりとしたスイカの触感と爽やかな甘味が彼女の味覚を満足させた。
 一つ二つと口に運んでいたセイバーは、衛宮家に入る前にも麦茶を飲んだことを思い出して、少々ペースを緩める。ゆっくりと首を振って否定し続ける扇風機の風が彼女の髪を流した。心地良さそうに、怠惰に映るTVを眺める。国会議事堂の前で暑そうにハンカチで額を拭く小太りのレポーターは、焦ったような真剣のような声で伝えるべきことをだらだらと垂れ流す。かけている小さなメガネが顔の大きさを強調していた。
「いつも通り、ですね」
 ああまったくのいつも通りだとセイバーはため息を吐く。朝、がんばって凛に服を借りたにも関わらず、髪を変えてきたのにも関わらず、午後に二人でプールへ行くにも関わらず、あまりにもいつも通りだった。どんな理由であれ、彼女が拍子抜けしたのは間違いない。それが良いことだったのか、悪いことだったのかもさておき。
 セイバーはフォークでスイカを突き刺そうとして……やめた。三つ矛の触れたスイカが赤い池に落ちて小さな波を立てる。
「……士郎は何処に居るのでしょう」
 桜と一緒に家に入ってきて、セイバーにフォークを渡したはずなのに、彼の姿が居間にはない。
 真綿のような違和感が彼女から離れない。精密機械の中の歯車が一つずれたような感覚がじりじりと頭の中で育っていく。
「桜の姿も見えませんね」
 一緒に入ってきた彼女の姿も、士郎と一緒に消えていた。
 腹部の奥から掠れるような声が響いているのに、彼女は気付かない。気付かない――ふりをしている。
 本当はとっくに解っているはずなのに、紙やすりのような感触の事実から目を逸らしている。気付けばきっと元には戻れないと解っているから。踏み出すには勇気が要る。進み続けてきたからこそ、彼女は進むことに、気付くことに臆病になっているのかもしれない。顎から汗が垂れたような冷たさとホットカーペットに寝転がったような温い熱さ。反作用の感情がスイカに塩を振ったように甘く、冷たく、熱くさせる。
「スイカが温くなる」
 言葉通りに、セイバーが口に入れたスイカは気温であたたかくなって温かった。
 時計の音がやけに家に響いた。大きなのっぽの古時計はおじいさんしか家に居ないから図々しく鳴り続けている。彼女はこんなに時計の音が大きいなんて知らなかった。セミが鳴かないから時計は主張する。効果も怪しいコマーシャルがTVモニターでだらだらと零れていた。ニュースは既に終わっている。下にあるスイカが上のスイカの重さで汁を皿に広げていく。柔らかな色合いの赤が毒々しい。まるで、孤独を知らしめる時計の音みたい。
 複数であることを知ったセイバーは一人に弱くなっていた。一人で居るしかなかったから一人に強がっていた彼女は、一人の辛さを知っている。仕掛けのしてある飴みたいなものだ。舐めた中からは柔らかい蜜が出てくる。固まっていない感情は傷を知らない心だから脆く壊れる。張り詰めた風船のようにほんの些細なきっかけで。哀しげな音色の風鈴ぐらいで。
 彼女も髪も揺らさないぐらいの風が吹く。それでも、風鈴が鳴るには十分な理由だった。
「スイカは冷たい方が美味しい」
 三つ、四つと次々に彼女は口へ運んだ。口に蓋をして何かが胃の奥からせり上がって来て外に出ないように、砕けたスイカが甘味を撒き散らして、吐きたくなるような気持ち悪さを強引に飲みこんだ。とっくに温くなったスイカは赤い池でうなだれている。扇風機が波紋を作り、泳いだ世界が頂きをまた崩した。
 彼女の目には歪んだ景色が広がっている。スイカの汁もスイカの実も大差はない。テーブルと畳の間も危うい。TVとビデオは台ごと一緒くたに揺らいでいる。うつ伏せに寝たフォークは次元の隙間に逃げ込んでいた。
「なぜ一言、行ってきますが無い」
 次元の隙間にも揺らいだTVとビデオにもガラスの器ごと赤いスイカにも、行ってきますの一言は転がっていない。恐らくは畳の下にもちゃぶ台の裏にも茶筒の中にも有りはしないだろう。I love youと呟いて誘惑したって出てきやしない。そしてそれは結局見つかることがない。初めからなかったのだから、見つけることなど出来はしない。
 今は目障りなTVをリモコンではなくスウィッチを押して消し、逃げ出すように居間を出た。後には温いスイカが蟻を魅了するだけ。うつ伏せのフォークがちゃぶ台との橋を渡すだけ。
 彼女は道場に走った。朝に汗臭さを消そうとしてシャワーを浴びたことも忘れ、今日が暑いということも忘れ、道場に――時計が無い部屋に走った。音は呼吸と心音だけ。やけに大きな心音と掠れるような呼吸だけが彼女の聴覚を満たす。それを無視して板張りの床に正座し、まぶたを下ろした。
  荒いやすりで磨いたような感情がセイバーの心を毛羽立たせる。彼女は掠れた呼吸をしないように限界まで息を吸いこんで沈めた。心臓の早い鼓動が彼女の耳に埋まる。他は途切れてそこまで届かない。
 三十秒ほどで彼女の毛羽立った心は落ち着き始め、一分ほどで感情にも丸みが出た。それから更に一分後では、なぜあんなに感情が暴走したのかと反省が出来るようになり、少しだけの恥ずかしさとあいまって彼女はため息を吐いた。肺の中で生暖かく濁った空気がとけていく。
「暑さで思考が歪んでいたんだろうか」
 正座していた足を崩しながらセイバーは呟き、熱の篭った髪を払った。

「ただいま」
 がらがらと玄関の戸が開く音に続いて、士郎と桜の声が通る。静かだった家の中に声が響き、道場に居たセイバーは立ち上がって彼らを迎えにいった。
「お帰りなさい。シロウ、サクラ」
 少しだけ滲むような寂しさと痛みを噛み潰してセイバーは何事も無かったように笑う。スイカには蟻が集っているだろうか? などと考えつつ。士郎と桜の手には沢山の食品が入った編みかごがぶら下がっている。桜の方のかごには斜めに飛び出たネギが二本、間抜けにお約束じみている。士郎の方には肉や野菜などが入っているらしく、通した持ち手が腕に食い込み重たげにぶら下がっていた。
「急いでたから声かけなかったんだけど、悪かったな」
「すぐご飯作りますから。それともスイカでお腹いっぱいですか?」
 二人の言葉に、自分のことしか考えてなかったように思えて、セイバーは一つだけ頷いて何もしゃべれなかった。スイカはあまり食べれなかったとも言えず、寂しくて泣きそうになったとも言えず。二人が帰って来た時、どうしようもないほどに安堵したことも言えず。
 幸い、スイカに蟻は集っていなかった。とはいえ温くなってしまっていたことは事実であり、赤い湖の元になったスイカがもうあまり美味しくないのも事実だった。
 帰ってきて早々、士郎は赤い湖を流しに捨ててからラップをかけてスイカを冷蔵庫にしまい、エプロンを身につけてかごの中から使う分だけの材料を取り出し、残りをまた冷蔵庫にしまった。桜もそれに続いてエプロンを身につけ、取り出した野菜を水に晒してから切り始める。
 換気扇をつけてコンロの熱を飛ばしながら士郎は冷や麦を沸騰したお湯の中に入れ、白く泡立つお湯を菜箸で軽くかき混ぜる。コンロの熱で掻いた汗を拭いつつ、士郎は泡立つ鍋の中のお湯をなだめた。桜は薬味を擦り、刻み、七種類の薬味――長葱、生姜、山葵、梅干し、胡麻、大根、紫蘇――を区切りのある器に入れてちゃぶ台に運んだ。冷麦も茹で上がり、ざるに上げてから流水でぬめりと熱を取って、一口分ずつ皿に盛られる。
 士郎は身につけていたエプロンを外して付近で手の水を拭き取った。
「さて、食べようか」
 多めに作った麺つゆを注ぎ口のある器に移し、深さのある皿三枚と冷麦の入ったガラスの器がちゃぶ台に載る。皿に少量ずつ麺つゆを入れ、三人はお百姓さんに感謝を捧げて食べ始めた。士郎は最初は何も薬味を入れずに食べ、次に紫蘇で食べ、更に生姜と大根おろしを加えて食べるとつゆが無くなったから、自分の皿に注いだ。桜は長葱と生姜で食べ始め、次に胡麻を入れて最初のつゆを空にした。セイバーは二人を見ていろんな味を楽しむために少量で食べるのかと納得し、山葵で食べてから紫蘇と生姜を追加して最初のつゆを空にした。
 赤い冷麦を巡って引っ張り合うといった恒例のやり取りもなく、昼食は和やかに終わった。そのまま一時までゆるりとした怠惰を過ごして、日が一番高く昇っている時間になって、ようやくプールへ行く準備を終わらせる。とは言っても、セイバーは持ってきたバッグを持っただけだし、士郎も準備しておいたものを手にしただけではあるが。日射病にならないように士郎はセイバーに麦藁帽子を被らせ、自分はメッシュ地のキャップを被った。
「じゃ、行ってくるよ。桜」
「それでは、行ってきます」
 玄関で手を振る桜に手を振り返して、二人は新都の方へ向かって歩き出した。

 休みだったせいか、バス停にわりと並んでいた人々が居たせいで士郎とセイバーは吊り革を掴みながらバスに揺られる。まばらに流れて行く景色を見るような雰囲気でもなく、話し合うような空気でもない。中途半端に堅苦しくて布を通したような息苦しさに二人は黙ったままバスに揺られた。街路樹の生える景色からコンクリート一辺倒の景色に変わったところで二人はバスを降り、同時にため息を吐いてそれに笑った。同じくプールに行くのだろう人々の背を眺めながら、ゆっくりと歩き出した。
 熱を持ったアスファルトの照り返しに自然と早足になりながら、二人は小奇麗な室内プールに着いた。自動ドアを通って中に入り、四時間、二人分のチケットを買って店員に渡すと、士郎は手を振って男性用更衣室に入っていく。セイバーも手を振り返して女性用更衣室に入っていった。
 士郎は空いているロッカーの前に立ってかすかに汗を吸いこんだTシャツ、だいぶ色の褪せたジーンズ、チェック柄のトランクスをしっかりと畳んで入れ、スイミングパンツを取り出して穿き、荷物をロッカーに入れて鍵をしっかりと閉めて凹みのついたプラスティックプレートに鍵を収め、ゴムのバンドを手首に嵌めた。
 更衣室を出て一、二分ほど士郎が盛況なプールを眺めて待っていると、女性用更衣室から出てきたセイバーが士郎の元に寄り、腕を取って引っ張る。気付いて士郎が振りかえると、そこにはオーソドックスなセパレートタイプの水着を身に付けた彼女の姿を見て、間抜けに口を開けて何を言うでもなく、ただ黙っている。言うはずだった何かはどこかに消えたらしく、今はただ彫刻のように固まっている。髪を下ろした彼女の見たときのように、それ以上に。
「あの、どこかおかしいですか?」
 再現のように彼女は自分を見下ろして、自分で見つかる範囲にはおかしいことがないから士郎に質問する。けれども、士郎は答えないで彼女を見つめたまま。具体的に言うと、彼女ではなく彼女の腹部を見ている。白銀の鎧、白いブラウス、今朝来ていたノースリーブにシャツを重ねた姿でも現れない腹部は、しっかりと引き締まっていて美しい。幼児体型は脱し、無駄な脂肪はなく、かと言って過剰な筋肉があるわけでもない。士郎は、普段はセイバーの普段は見れないヘソを見ていた。
「どうして腹部ばかり見るのです」
 あまりにも見られ過ぎるせいでヘソを出していることが恥ずかしいことに思え、拗ねたような少々怒った声で言ったセイバーが少しだけ睨みつつそこを隠すと、士郎はようやく目を覚ましたように彫刻から人間へと帰り、そして自分のしたことを思い出して顔を赤くする。そして思う。俺はヘソフェチというやつだったのか? と。
「うー、あー、んー、なんていうか……その、キレイだったから」
 なんとも言いがたい気まずい空気が二人の間に漂う。更衣室から出たすぐのところで顔を赤くした人間が二人、何をしているのかと回りの人も思う。
「お、泳ぎましょう。せっかくプールに来たのだから、それがいい」
「う、うん。そうだな。泳ごう。泳ぐに限る」
 ぎこちない動きで士郎は三種の深さのプールのうち、一番深い百五十センチの深さのプールに滑りこんだ。セイバーはそれよりも一つ浅い、百二十センチの少年用プールに身を沈める。人の泳いだ残滓がセイバーの体を揺り動かし、水の中に落とす。水に広がる金色の髪を追いかけて水に沈んだ彼女を士郎が引き上げた。
「大丈夫か、セイバー」
「はい。気が動転してたとは言え、あの程度で体勢を崩すとは――」
 髪から滴る水が格子のような間をを作る。二人はもう一度見合って、今度は笑った。もうさっきの気まずさは消えていた。
 子供の声がプールを覆う。水の跳ねる音が合間に入り、幼児の泣く声が人々の注目を集める。何往復もしていたスイマーが水面から顔を上げ、耳に入った水をプールに戻す。三段式の深さが違うプールとは別の、滑り台と言うのが相応しいウォータースライダーらしきものから、回って落ちてくる子供が嬉しそうな叫びを上げる。
「泳ごうか」
「はい」
 もう一度確認するように士郎は言って、セイバーは賛同する。そして二人は競争でもするように我先にと二十五メートル先を目指して泳ぎ出した。
 水面が揺れて光を反射する。天井には大きなガラスが嵌っていて、屋根を支える鉄筋など以外はほとんどがガラスで出来ている。
 二十五メートルを先に泳ぎきったのはセイバーだった。とは言ってもそう差があるわけではなく、コンマ五秒ほどセイバーが早かっただけだ。床に足を着いて立ち上がった彼女に付着した水滴が光に反射して、ゴールドブロンドともども輝く。士郎に勝って笑った彼女は、子供のような無邪気な可愛さと大人のような洗練とした綺麗を矛盾なく同居させていた。
 士郎はそれを見て水面から上げた顔をまた水中に突っ込み、壁をキックして反対側へと泳ぎ出す。それはたった今二十五メートル泳いだよりも速く、実に二秒ほどもタイムを縮めていた。セイバーはそれを見て士郎は本気を出していなかったのかと口をへの字に曲げ、士郎と同じように反対側へと泳ぎ出す。セイバーも一秒以上タイムを縮めて二十五メートルを泳ぎ切り、見ればまた泳ぎ出していた士郎をターンして追いかけた。
 クロールで追いかけていたセイバーが息継ぎに横を向くと、士郎が平泳ぎでゆっくりと泳いでいるのを見てその場で立ち、口をへの字に曲げ直して眉間へ微かに力が入る。
 向こうへ渡り切った士郎をようやく捕まえてセイバーは不満そうに士郎を見つめ、士郎はなぜそんな顔をされているのか解らないままうろたえる。
「えーと、なにか悪いことした?」
「不愉快な行いが悪いと定義出来るのなら」
 勝手に追いかけて弄ばれたように感じ、不愉快になった責任はセイバーにもあるのだが、士郎はわけのわからないまま一応謝った。セイバーはそれで納得したように頷き、水を掻き分けて反対側へと泳ぎ出した。反対側へと辿りついて士郎が着いて来ていないのを確認したあと、もう一度口をへの字に曲げかかったのだが、それこそ八つ当たり以外の何物でもないのでセイバーは口に出さなかった。
 もう一度反対側へ泳いでセイバーは士郎に水をかけると、士郎は悪戯を思いついた子供のように笑ってセイバーに水鉄砲を返す。やけに勢いのある水にセイバーが興味深そうに手元を見て真似するが、見様見真似程度では上手く行かない。
「こうするんだ」
 水鉄砲がもう一度セイバーの顔を撃つ。彼女は口をへの字に曲げて、プールの水を両手で思いきり掬った。七十センチほどの高さの波が士郎を襲い、水が体を余すところ無く包みこむ。回りに居た人が若干巻き添えになったものの、大きな被害はない。セイバーと士郎はは回りに謝ってからそそくさと反対側へ向かい、ため息を吐いた。
 今度は丁寧に水鉄砲のやり方をセイバーに教え、彼女は数分ほど練習すると出来るようになった水鉄砲を嬉しそうに士郎に見せる。士郎が上手くやれてると誉めると、セイバーは嬉しそうにして顔を赤らめ、少しだけ照れくさそうに笑った。
 今度は安全に水鉄砲を飛ばし合い、上手く顔にかけられると、一瞬、呼吸が停止するためやられたらやり返したいと思い、なかなか白熱した闘いになる。さすがに水鉄砲に慣れていないセイバーは不利だが、一撃の強さならば士郎にも負けていない。そうして遊んでいると、二時間ごとに入る五分間休憩を知らせるブザーが鳴った。
 プールの中からぞろぞろと人が出て、子供たちは待ちきれないようにプールサイドで待ち、大人たちは低温のサウナに入っていく。一部の子供たちもサウナに入っていくのは、よりプールの水を冷たく感じるためだろうか。若いカップルはプールサイドで談笑し、ある者は面倒くさそうに、ある者は子供のように待ちきれなさそうに立ち、あるいは座っている。
 士郎とセイバーも大半のカップルのように談笑しつつプールサイドで待ちながら、そういえばしてなかったな、と今更のように柔軟をして五分休憩を終えた。もう一度ブザーが鳴って、子供たちが我先にとプールの中に入っていく。中には禁止されている飛びこみをして監視員に注意されるのも珍しくない。サウナから飛び出してきた子供なんかは特にそうだったりした。大人はまだサウナで会話をしたり黙っていたりと様々に堪能し、カップルもまだプールサイドで喋っているものが大半だった。
「それじゃ、準備運動もしたしもう一泳ぎするか」
 ゆっくりと足から水に浸していき、士郎は一度全身をプールに潜らせてから壁を蹴り数秒の潜水をしてから平泳ぎで向こう側まで渡った。セイバーもそれに習うように今度は士郎と同じ一番深い百五十センチプールに入り、つま先で底を蹴って顔を出しつつ息を整えて同じように向こう側まで渡り、士郎の肩につかまった。
「うわ、え、な、なんだ?」
「足を底につけると顔まで沈んでしまうので、肩を貸りています」
 士郎から乗り出すような格好になり、セイバーは突っ張った腕で体を支えている。とは言っても腰の中ほどから水に埋まっていて、重量はそれほど士郎にかかっていない。もともと無茶が出来るように鍛えられている士郎の体なら、バランスは崩れるだろうが陸上でもセイバーの体重を支えることは出来るだろう。だが、現実的にはそれよりも難しい状況にある。簡潔に言ってしまえば、露出した腹部が後頭部にくっついている。
「ちょ、それは結構ヤバイ」
 柔らかくて弾力のある、適度に引き締められた腹部の感触を後頭部に感じながら、人の沈むプールを掻き混ぜる。士郎が掻き混ぜた近くにいる人はトーテムポールのような二人を鬱陶しげに、面白そうに眺めながら日常に戻っていく。浮き輪で浮かぶ少女が流れて笑った。髪を茶色に染めた青年がゴーグル越しに覗いた。派手な水着を着けた女性が隣の彼氏に同じことを試して二人とも水に落ちた。妙齢の女性がそれらを見て微笑む。
 バランスを崩しながら進んだ士郎は二十メートルほど進んだところで大きく体勢を崩し、飛沫と波紋を撒き散らしながらプールに沈んだ。急なことで必死にしがみつくセイバーに大きくバランスを崩されながら、強く床を蹴って首から上を空気に突き出す。止まっていた呼吸を再開して大げさに息を吸うと、セイバーも顔を出したようで軽く咳き込みながら少しずつ息を吸いこんだ。
 二人は落ち着くと、全部の体力を使い果たしたようにぐったりと肩を落として項垂れ、士郎はセイバーの慎ましい胸が後頭部に押しつけられているにも関わらず、それすら気づかない疲れようでプールサイドまで歩き、そこでセイバーを降ろして座らせた。そして自らはようやくといった風に力を抜き、仰向けに浮かぶ。緩やかに上下しては流れて行く波がぶつかり合って消えた。冷たい水が茹だったような肌と思考を冷ましていく。人の作り出す気温が低く沈んで消えた。
 セイバーがプールサイドから足だけをプールに浸けて掻き混ぜる。独特の塩素の匂いはしない。士郎とセイバーの間では疲れたという気持ちと何がかは解らない、切なさと寂しさが混じったような感覚だけが繋がっていた。室内プールの喧騒も、外に出ればまた暑いのだろうという憂鬱も、ガラスを一枚隔てたような遠い場所に存在している。
 深いプールを意味している藍に塗られたプールの床に士郎の髪が滲んでいく。血のように鮮やかな赤色が藍に零れた。夜のような孤独感と霧向こうのような存在感がナイフみたいにセイバーの心臓を抉った。
「あぁ、そうだ」
 衛宮士郎とはそう言う存在だったのだと、彼女は再認識する。プールの水にも滲んでしまうような希薄な自己、その髪色のような荒野じみた決意の結晶みたいなものと、それを縫い止めながら連れて行こうとする正義の味方の理想が、衛宮士郎だったのだと。
「だから、リンは。そして、私は――」
 この存在を幸せにしてみせようと。

 水面が揺れて士郎が藍に沈んだ。咳き込みながら水面を掻き混ぜて苦しそうに顔を歪ませる。ああ、そんなものだ。とセイバーは微笑んだ。きっと、それらしく引き摺り回して馬鹿を一緒にやれば幸せになれると、そう思ったから彼女はプールに入って士郎にもう一度寄りかかった。



ドロップ
Fin



INDEX