春。暦の上では立派な春の三月。櫻は進学者、入学者、新入社員を歓迎する季節。或いは花見で見物人たちの目を楽しませる為に、その花を成長させている最終段階に入ろうとする季節。
 そして杉。花粉症患者たちがクシャミの大合唱を繰り広げ、目を赤くなるまで擦る原因となるスギ花粉が舞い散る季節。早いところでは既に舞っているが、冬木市では三月の中盤から舞い始める。そんな季節に藤村大河は、内定が決まっているのか慌てる事も無くのんびりとしていた。



三秒ルート、経緯



 太陽がまだ上がり切らず、大気はまだ冷えていて水も冷たい時間に衛宮士郎は目を覚ました。時刻にして五時三〇分、いつも彼が起きる時間。だが、今日は何時もと違った。彼が住んでいる武家屋敷の殆ど何も無い一室ではなく、空よりも暗く、空気も僅かに淀んでいる空間。彼が目覚めたのは、毎夜鍛錬をしている土蔵。
 土蔵の中には作り掛けなのか直し掛けなのかも分からない中途半端な状態のストーブや、細く、チープな塗装をされている一般にママチャリと言われる自転車のフレーム、マウンテンバイクに使用するような無骨なタイヤに、頭部が破損してその空洞が露わにされたフライドチキンチェーン店の創設者の人形等、ガラクタとしか言い表せない物が転がっている。自転車のフレームやタイヤはそこで自転車屋ならばパーツと言えたものの、残念ながら自転車のパーツはそれ以外にサドルや切れたチェーン等しか置いておらず、ガラクタに成り下がってしまっている。
 士郎は背中の痛みと暗さから土蔵で寝てしまったのだと気付き、自分に呆れた。昨夜、やり過ぎたのかと言う呆れと、昨夜やった量を思い出してまだまだ貧弱だと思う自分への呆れ。
 彼が鍛錬と称してこの土蔵で行うのは、肉体的な鍛錬ではない。そもそも、この土蔵ではガラクタが有り狭いので肉体を鍛えるなんて事には向いていない。それに、彼のすむ武家屋敷には立派な道場があるのだ、わざわざここで行う必要は無い。つまり、彼がしているのは精神的な鍛錬。いや、手っ取り早く言うと魔術と言う神秘を体現するための鍛錬をしていた。士郎は毎晩この土蔵で魔術の鍛錬をしているが、けして優秀とは言えない。いや、未熟か落ち零れ、砕いて言うとへっぽこと言えるだろう。何しろ、強化と言う魔術自体、ろくに使えないのだから。
 強化と言う魔術は初歩、つまり基本とも言える魔術。そして同時に極めるのは困難な魔術なのだが、その簡単な方でさえ彼は失敗する。尋常ではないぐらいに失敗する。砕いた木材は数知れず、ひび割れた鉄パイプは記憶の彼方と言うぐらいなのだ。その成功率は一パーセント弱、昔の日本の消費税よりも低い。
 この数字でいかに彼が未熟かが分かるだろう。故に毎晩鍛錬を続けているのだが、その成果はあまりにも目に見えない。
 士郎は手に持っていた破損している鉄パイプを放りだし、数度顔を両手の掌で洗うように擦ると、重そうに身体を引きずって土蔵の扉を開け、外に出た。
 まだ蒼い、と言うよりは蒼暗い空。その中で士郎は痛んだ背中を伸ばし、肺の中の空気を入れ換えた。
「ちょっと身体が重いし、今日は軽めにするかな」
 そう言って士郎は手首や足首を軽く回してから、背を思い切り丸めた。いや、正確に言うのならば背を丸めたわけではなく、折ったと言うべきなのだろう。彼は立位体前屈をし、掌を草が生えている地面に着けた。それを数秒持続させて今度は背を丸めた状態から反らす。士郎の頭は丁度腰の辺りまで来て、その辺りで数秒ほど止まってからバネ仕掛けの玩具のように急激に跳ねるように元に戻った。
 急激に戻ったせいか、僅かにふらついたがすぐに足は力強く地面を踏み締める。
「もうちょっと三半規管強けりゃ良いのに」
 呟きながら、士郎は柔軟運動を続けた。

 たっぷりと二〇分ほども柔軟運動をし、額に汗が浮かぶ頃になって士郎はようやく柔軟運動を止めた。
 以前、士郎は準備体操もしないでいきなり走る事があったが、その際に足首を捻って捻挫している。その経験から柔軟体操、準備体操は大切と知りじっくりとやっているわけだが、普通の人間は二〇分もやる人間など居ないだろう。スポーツ選手等、その類の職業の人ならばその例外にもなるかもしれないが、それでも軽く疲れるまではやらないだろう。準備運動の目的は、あくまでも身体を温める為なのだから。
 士郎は額に掻いた汗を寝巻き代わりのシャツの袖で拭い、少し弾んだ呼吸を戻す為に無理矢理息のペースを遅くし、深呼吸に移行させる。
「ふぅ。今日はこれだけで良いか、そろそろ朝食を作った方が良いし」
 六時を少し回れば毎食時やってくる飢えた虎をもてなす為に、士郎は台所で冷蔵庫の中身と相談して朝食を作らなくてはならないのだ。人間名、藤村大河と言う飢えた虎は、その名前は飾りでも伊達でもない事を証明するように良く食べる。茶碗にして数杯、味噌汁、おかずのお代わりは当たり前、そして人のおかずを奪る事もしばしばと言う、正に飢えた虎と称するに相応しい食べっぷりなのだ。虎、或いはタイガーと呼ぶと彼女は怒るが。
 彼女は自分のタイガと言う名前にコンプレックスを持っているらしく、その類の名前で呼ばれる事を非常に嫌う。が、虎と言う存在自体は好きらしく、古くから使っている愛用の竹刀にはデフォルメされた虎のストラップを付けている。そのせいで試合出場停止になった事もあるが、彼女は一向にそれを外そうとはしない。もっとも、古くから使っている竹刀が何故現在も現役使用出来るほどの状態なのかは、士郎が暇な時に考えている謎の一つになっている。
 士郎は虎と呼ばれて怒っている彼女を脳裏に描きつつ、今日も飢えた虎を餌付けする為に台所へと向かった。

「おっはよー、士郎! お姉ちゃんお腹ペコペコだよぅ」
 元気一杯か空腹全開か、或いは両方で居間に入った藤村大河は、すぐにいつもの指定席とも言える彼女の虎がプリントされているお茶碗がある場所に座り、その茶碗を行儀悪く箸で叩く。適当なようで一定の間隔でならされる茶碗は、楽器のように思え――るわけもなく、士郎が呆れるのみとなる。大体にして、彼女は何時もこう言った事をするのだ。士郎も慣れ、呆れ果てると言った様子。
「何度も言ってるけど、いや、何度も言いたくないけど、そういう事をするな。一応、大学も卒業して年齢だけで言えばお姉さんなんだから」
「ふっふっふ。士郎、良い所まで行ったけど、所詮は中学を卒業したての子供。わたしはお姉さんじゃなくてお姉ちゃんなのだ!」
 思いっきり格好つけて言い放った大河は、士郎が呆れている事にも気付かず一人してやったりと言う顔をし、愛用のお茶碗にご飯がよそられるのを待っていた。
 士郎は全く論点が違っている大河に行儀が悪いから直せと言う事を教えるのを止め、胃で空気を圧縮しているだろう大河の事を思い、彼女の愛用の茶碗に白米を大きく盛り、彼女が何時も使用しているお椀に具沢山の味噌汁をよそった。
 彼女は白く輝く白米が自分の茶碗によそられると共に自分の分を用意する士郎を急かし、箸を動かして鳴らしながらその空腹っぷりをアピールする。
 士郎は自分の茶碗に大河よりも少ない程度に白米をよそい、古めかしい使い込んだ感のある木目のお椀に具を多目に味噌汁をよそう。
 おかずは丁度良いぐらいにまで塩分を抜いた塩鮭に、定番と言って良いほど衛宮家の朝食の食卓に上がる出汁巻き卵、それとワカメの酢の物に納豆と、和食の定番のようなメニュー。
「じゃ、用意も出来たし食べるか」
 衛宮家のルールとして、どれだけお腹が減っていても全員で「いただきます」を言わないと食べ始めないと言うものがある。以前、大河はこれを破って次の一食を抜かれた為、つまみ食いはしても先に食べる事はしなくなった。そのせいで彼女は唸り声を上げそうな空腹を抑えているのだが、血は繋がってないとは言え、姉と弟の二人家族。ルールを決めた当時は三人だったが、人数が減ってそれで改めて家族で食べると言う大事さを分かったのだ。大河は今でも一緒に食べると言う事を大事にしている。けして一食抜かれた事が直接の原因であるわけではない。
 二人は箸を親指と人差し指の間に挟み、「いただきます」と言ってから朝食の時間となる。時計はまだ六時二〇分をようやく過ぎた頃。大河が遅いと言っていた割には何時も通りの時間。
 大河は塩鮭を解してから口に運び、間髪入れずとばかりに白米を口に放り込むようにかき込んでいる。
 士郎は箸を立て、小粒の納豆、刻まれた長葱、削り節、納豆に付いていたタレが入った小鉢をかき混ぜる。軽快にかき混ぜられる納豆等は、その納豆の粘りに取り捕まって一体となっていく。
 士郎は混ぜた納豆を三分の一ほど茶碗に乗せると、大河同様かき込むようにそれを口に運んでいく。納豆や塩辛などを食べる時ご飯が汚れるのが嫌だ、と言う理由でそのまま食べてからご飯を口に入れる人も居るみたいだが、士郎はそういう事を気にしないタイプらしい。大河は以前、納豆にマヨネーズを入れて食べたりしていたから、論外かもしれない。
 二人が食事をしている最中にもTVは点いている。士郎は食べる直前まで料理の仕度をしていたのだから、点けたのは大河と言う事になる。だと言うのに大河はTVから流れる音声にも映像にも興味を示す事無く、ただ一心不乱とばかりにテーブルに並べられた朝食を平らげていく。
 既にワカメの酢の物はお代わりの分まで無く、味噌汁は二杯、ご飯は三杯目。残念ながら塩鮭は二切れしか焼いてないらしく、お代わりはしていない。その分、出汁巻き卵を士郎がお代わりをする分まで食べたのだが、それでも彼女の食欲は尽きずにいる。
「士郎、おかわり!」
 士郎はそれで空になるだろう炊飯器の中のご飯を見て溜め息を漏らした。
「食べた直後から消化されてるわけじゃないよな?」
 思った事を小さな声で呟きながら、士郎はデフォルメされた虎が笑っている茶碗に最後のご飯をよそった。

「うーん、お腹いっぱい。ごちそーさまー」
 縞模様の上着と胸部――鎖骨辺りから脛ほどまでを覆うワンピースを以ってしても隠しようが無いぐらいに膨らんだ大河の腹は、さしずめ孤島で突き出た小さくなだらかな丘のようにも見える。彼女は三号炊いた炊飯器を空にし、味噌汁を無くしておかずは士郎の分まで取り、ようやく空腹が収まった様子である。士郎の心配した食べた先から消化と言う事実は無く、ただ彼女の胃袋の許容量が人並み外れて多いだけのようだ。
 大河が今で膨れたお腹を仰向けにしながら、上下が逆さまになったTVのモニターを見ている間、士郎は台所で洗い物をしている。と言ってもそれほど数が多いわけでもないから、全部が終わるまで五分とかからないだろう。
 蛇口から流れる水流は冷たく、春とは言えまだ温かくなるには早い。茶碗を重ねる度鳴る音は、子供が陶器の楽器を鳴らすようで、微笑ましくも耳障り。けれどもそんな事に耳を傾けるほど士郎は注意散漫ではなく、早くに食器を全て片付けた。
 士郎が食器を片付けて居間に戻ると、そこにはまだ仰向けで逆さまになったままでTVのモニターを見ている大河の姿。モニターには七三分けの男性キャスターが、何処かで万引きがあったとか動物園で稀少な動物の赤ちゃんが生まれたとか面白くも無いニュースを垂れ流している。
 大きなニュースや世情の出来事を知りたいのなら、ニュースではなく新聞を見れば大体分かるし、自分のペースで読めるからその方が良いだろう。そんな理由で士郎は緊急でも無い限りTVで流れるニュースにはあまり興味を持っていなかったから、リモコンで他のチャンネルに回す。
 とは言え、朝からバラエティやドラマなんぞやっているわけも無く、士郎は面白くも無いけどつまらなくも無いと言うような四チャンネルに流す映像を決めた。
 大河は見ていたチャンネルから別のチャンネルに回されたと言うのに、反応は無い。元々二人ともTVを大人しく見ているよりは身体を動かして遊ぶタイプではあるが、反応も無いと言うのは何かおかしいと感じたのだろうか。士郎はTVモニターからお腹を膨らませた大河に視線を移し、訊いかける。
「やっぱり食べ過ぎたか?」
「食べ過ぎじゃなくて考え事。お姉ちゃんだって大人なんだから、色々考えてるのよー」
 ぼんやりとした口調で大河は言い、変えられたチャンネルに興味を示さないまま珍しく自分の思考に落ちこんでいく。
 士郎は稀少な美術品でも見るように大河を見ていたが、数分ほどしてそれにも慣れたか見飽きたようにTVに意識を移した。TVモニターには屋外で明らかにTVに映ろうとしている人が何人もアナウンサーの後ろでピースサインをしている。アナウンサーはそんな人達を無視し、番組の締めくくりをしている。大きな声で叫んだと思うと、番組はエンディングテーマを流してコマーシャルに入った。
「士郎、お花見行こう」
 本当に唐突に大河が言った。
「良いけど、何時?」
「今日!」
 士郎は視線の温度を落としつつ、呆れたように溜め息を吐いた。
「あのな、藤ねえ。桜が咲くのは四月なんだ。三月でも咲いてない事は無いけど、まだ満開じゃないしここら辺じゃつぼみが精々だと思うんだが」
「うーん、それは盲点だったなー。お姉ちゃん、TVで花見なんて言うからてっきり咲いてると思ったのに。じゃあ、散歩でもハイキングでもピクニックでも良いから行こう。うん、決定ー!」
 どうやら、彼女には常識と言う概念が欠けているところがあるらしい。或いは、三月と言う時点で少し考えれば分かる事なのだろうが、気分が既に花見に行ってしまっていたのかもしれない。彼女は勝手に予定を決めてしまい、思考はまたもや何処かに飛んでいる。
 士郎はそうなってしまったら何を言っても無駄だと知っているのだろう、もしくは経験で嫌と言うほど解っているか。大人しく今日出かけると言うことを甘受し、大河の要求を飲む事にした。
「で、弁当作れば良いのか?」
「士郎が嫌なら作らなくても良いけど。お弁当屋さんのお弁当も美味しいし。けど、お姉ちゃんは士郎のご飯のが好きだなー」
 士郎はそんな事を言う大河に苦笑して、
「分かった。冷めても美味しい弁当作るけど、酒は無しだからな」
 そう言い残し、士郎は商店街へ買い物に出かけた。

 マウント深山商店街。そこは新都に行くには少し遠い深山町の住人が主に利用する、昔ながらと言って良いほど低い声の魚屋や、大きな声の八百屋が存在している場所である。
 長所としては食べ歩きが出来るほど整った食に関する店が多い事。専門的な和菓子屋からクレープ、揚げ立ての匂いが良いコロッケ等、ダイエット中の女子学生は歩くな、みたいなゾーンも沢山ある。欠点と言えば、娯楽施設が無い事。ゲームセンターはおろか、ファミリーレストランか何かにでも配置されるような小さな娯楽要素まで全く無い。殆ど無いのではなく、皆無なのである。
 そんな近所の奥様安心な商店街を士郎は目を光らせながら歩く。彼が思う事は一つ、少しでも安くて良いものを。
 ただでさえ食費がかかると言うのに、お弁当とあっては気合を入れざるを得ない。普通の料理ならば温かい内に、或いは冷たい内に食べれるから、温度の関係など気にする必要は無いのだ。しかし、お弁当と有っては温度の変化と湿度、料理の変化を無視する事は出来ない。揚げ立ては衣もしっかりとしていて良い触感の唐揚げも、時間が経てばその立派な衣は湿気で柔らかくなってしまう。故に普通の料理よりも弁当のおかずは考えなければいけないのだ。
 眼を鋭くし、睨むように野菜を選別しながら士郎は八百屋の店主と話をする。いや、交渉と言った方が正しいか。
 結果、士郎はその交渉を有利に進め、値段は安く、質は良いものを手に入れる事が出来た。元々客商売であり、スーパー等と戦わなければ行けない八百屋。値段は元々良心的なのだが、更に安く買われるのだ。堪ったものではないだろうに。しかし、商売の基本は薄利多売とお客さんの口コミ。そのお陰でマウント深山商店街の八百屋は毎日盛況している。
 他の肉屋なりも士郎は同様に交渉して安く良い物を仕入れ、満足げな顔をして自らの家に帰って行った。

「お姉ちゃん、すっごい所知ってるんだから」
 その一言で藤村大河と衛宮士郎は弁当と水筒、ビニールシートやタオルなどを持ち、大河曰くそのすごい所へと出かける事になった。
 天候は幸いにも快晴。日は温かく、士郎のトレーナーと適度にくたびれたジーンズと言う格好でも寒くは無さそうだ。足元には歩きやすいだろうスニーカー。大河も足にはサンダル等ではなく、スニーカーを履いている。
 士郎は元が花見と言った物だから近所の櫻の木がある所にでも行くのかと思ったのかもしれないが、大河は後ろなんて気にせず鼻歌混じりに足を進めていく。どうやら数時間の内に、腹が出るほど食べた朝食は完全に消化されてしまったらしい。まるで苦しんでいる様子など見られない。
 隊員二名の藤村散歩隊の行く先はいよいよ怪しくなって来た。まだつぼみが咲いている櫻の木を無視して、平地より僅かに高くなっている山に入ったのだ。山といっても実際には丘程度の物しかない。木もほとんど無く、生えているのは草原のように草だけ。名前も無く、おかしいと思う事が幾つかある山と言う草原は終着地点だった。
「空気が美味しいって言うんだろうね、こう言う時は」
 草しか生えていないと思われた草原には、場違いな木が三本、近くに寄り添うようにして育っている。その木にはつぼみがあり、そのつぼみは日陰にあるせいか、僅かに濃い薄紅色。種類にしてソメイヨシノと呼ばれる種類の櫻の木だった。
「つぼみを見るのも悪くないか」
 士郎はたった三本、寄り添うように育っている櫻に、儚さと力強さを見て言葉を漏らした。つぼみは後一月もすれば満開になり、誰も花見に来ないようなこの草原で散るのだろう。だが、それが無駄になるわけではない。少なくとも櫻は成長し、また次の花を咲かせる準備をするのだ。次こそは誰かに見てもらえれば良いと。
 櫻は僅かに三本。されど三本集まれば折れるに難く、文殊の知恵の如く。僅かに三本なのではなく、三本も育っている。それが草原の中、場違いに育っている桜の見方なのだろう。
「ねえ、士郎。遊ぼうか」
 そう言うなり大河は背負ってきたリュックサックの中から、右手用グローブと硬球を取りだし、グローブを一つ士郎に放り投げた。士郎は何時も唐突で理解し切れない姉に溜め息を漏らしながらグローブを付ける。
 グローブが硬球を取る度に乾いた音が鳴る。僅かに甲高く、失敗したように抜けて、数種の乾いた音は会話をしながら続けられる。
 会話の内容は本当に何気ない、適当な世間話。テーブルを挟んで対峙し、みかんを食べながら話していてもおかしくないような会話は、離れているせいかキャッチボールでテンションが上がったか、妙に大きな声で続けられる。
「あっても良いと思うけど、無くても良いだろ」
「お好み焼きにマヨネーズは必須なんだから!」
 まあ、実にらしいと言えよう。草原に来てまで食べ物の話題とは。

 お好み焼きにマヨネーズは必須か、と言う話題でキャッチボールは全力で投げられるようになり、小一時間程過ぎた辺りで士郎はようやく頭の血が下がり始め、自分が折れれば良いと言う事に気付いた。
「分かった、オーケイ。お好み焼きに格子マヨネーズは必須と言う事にしよう。それで良い」
「ようやく分かってくれてお姉ちゃん嬉しいよぅ」
 二人とも全力で闘(や)りあって肩を弾ませながら息をし、浅く荒い呼吸で肺の中の空気を忙しなく入れ替えている。
 そのまま地面に倒れこみ、空を見上げた。快晴の空は蒼く、雲は綿を引き千切られたように薄い。平地よりも空に高い分、空は余計に高いように見える。
「士郎、お腹減ったね」
「……飯にしようか」
 士郎はグローブを右手から外し、皮の匂いが染った手を大気にさらして数度振ってからリュックサックの中の弁当箱を取り出す。弁当箱は一つ。だけど、重箱の三段重ね。お花見らしいと言えばらしい。
 重箱を「つまみ食いするな」、と大河に重々言って聞かせてから士郎はビニールシートを取りだし、草の上に敷く。言いつけ通りにつまみ食いはしなかったものの、唾液でも垂らしそうな大河の為に士郎は行動を早くした。
 二人はスニーカーを脱いでビニールシートの上に座り、士郎が重箱を開ける。一段目には重箱の回りにレタスと、その中央に数十とある唐揚げ。唐揚げを揚げる際、小麦粉を使って冷めても美味しくした唐揚げは、湿気でしっとりとしているものの、美味しいに違いない。
 二段目には白と茶色のおにぎりが列んでいる。白いおにぎりには梅、昆布、高菜などが中央に詰まっていて、茶色いおにぎりはおかかと醤油をご飯に入れ、混ぜたものだ。何れも海苔は付いていて、海苔はおにぎりの水分でしっとりとしている。
 三段目には十字に仕切りがあり、細々とした物がある。区切った左上はタコ型にされたウィンナーが幾つもあり、丁寧に目玉の部分には胡麻が詰められている。
 左下にはへたを取ったミニトマトを三つ団子のように爪楊枝に刺し、それが幾つも列んでいる。右下にはそれと同じようにうずらの卵が爪楊枝で団子状にされ、列んでいる。
 最後の右上にはサラダ。レタス、キュウリ、ニンジンを細切りにし、良く水分を絞ったツナを加えて作られた簡易的なツナサラダがある。ドレッシングは小さなパックに入れられ、後でかけるタイプのようだ。
 大河は待ちきれずと言う感情を眼で訴え、早くしろと急かす。
「はい、じゃあ頂きます」
 大河は続けて早口言葉のように言い、白いおにぎりに手を伸ばした。おにぎりが頂点から大きく齧られると、そこには濃い緑色の漬け物が刻んで入っている。どうやら大河が取ったおにぎりは高菜らしい。
 士郎はまず唐揚げに手をつけ、数度咀嚼してから我ながら良い出来だと言わんばかりに頷いた。
 そこで、まるでコントか冗談のように咀嚼したおにぎりを咽喉につまらせて大河は胸を叩く。
「ああもう、子供みたいな事して」
 藍色の水筒の蓋を開け、中から冷たいままの麦茶を大河に差し出すと、彼女はそれを奪うように取って、咽喉に詰まったおにぎりを胃に落とす。
「っはぁ。ありがとう、士郎。苦しかったー」
「弁当は逃げないからゆっくり食べろよ」
 十歳近く年下の弟にそんな事を言われる姉も随分と珍しいものだろう。

 風が流れる。草原の草を撫でるように吹きながら、その草原に沈むように寝転がっている二人の短い髪も撫でつけた。
 重箱は空。いや、正確には爪楊枝などの食べられないものは中に残っているが、その中に入っていた料理は全部食べ尽くしてある。朝食でもそうだったが、昼食でも大河が活躍した。ミニトマトの一個からキュウリの一本まで残さずキレイに消えた弁当箱は風呂敷に包まれ、士郎のリュックサックに戻されている。
 まだ冷たい麦茶の残っている水筒は、士郎の横に転がったままその藍色を緑の中に埋もれされている。
 草の背は大体三〇センチほどあるだろうか。以外と高く、その草原が結構前からあったと言う事が分かる。その中でキャッチボールなどしてボールを落としたら二度と見つからないような気もするが、幸いにして二人はボールを一度も取り損ねなかった。後半は全力で投げ合っていた事からして、その捕球能力は脅威と言えよう。いや、コントロールが良いのかもしれないが。
「そろそろ帰ろうか。お弁当も食べたし」
「そうだな、暗くなる前に帰るか」
 日はまだ高い。まだ暗くはならないだろうが、何もしなくても暇でも退屈でも無くなるその草原は時間を忘れてしまうのだろう。
 行きと比べて軽くなったリュックサックを二人は背負い、残った麦茶を一杯ずつ飲んでから山を降り出した。
「それにしても、何で花見なんて突然言い出したんだ?」
「ちょっと遅い合格祝い。と思って張り切ったんだけど、結局お弁当は士郎のだし、お姉ちゃん失敗だよぅ」
 ちょっと冗談気味に言って笑う。
「……ありがとう。まあ、結構良い所だったよ」
「うん。ありがと、士郎」

 日は暮れて烏が鳴き、近所の主婦が商店街で夕食の買い物をするような時間に、士郎は台所に立って夕食を作る。まだ早いうちから作ると言う事は、時間がかかるものを作るらしい。
 包丁が材料を通ってまな板を叩く音が流れる中、大河は剥かれたリンゴを口に運びながらTVを眺める。TVモニターには生真面目そうなニュースキャスターが映っていて、テロップで起きた事件やらを一目で分かるようにしながら簡潔な概容を話している。キャスターだけあって、喋りが僅かに速いものの、聞き取りやすい発音は流石だろう。まあ、TVよりもリンゴの方が主だと言う大河には関係無い事だが。
 コンロの火が灯り、その上に置かれた大きな鍋の中へ適当な大きさに切られた野菜が放り込まれて行く。大きな鍋の中には水が張ってあり、野菜はその中で煮えるのを待つ。
 しばらくしてお湯が煮え、野菜がある程度柔らかくなるとその中に鶏肉が放り込まれる。士郎は鍋をかき混ぜ、ピンクだった鶏肉を白くすると鍋の中に茶色い固形を入れる。少しするとただのお湯だったそれは茶色く濁り、香辛料の匂いを鍋から漂わせる。
 士郎はかき混ぜて入れた固形物が完全に解けきったのを確認すると、火を弱火にして手を洗い、台所から出る。後は煮込むだけで完成なのだから、そこに立っている必要は無いのだ。
 大河はフォークで突き刺したリンゴを齧りながら、台所から漂ってくる匂いに鼻を効かせる。
「むむ、今日はカレーか」
 得意げに大河は胸を張り、「当たってるでしょう?」と言わんばかりに士郎を見る。匂いを嗅げば誰でも分かるのだから威張る事でもないのだろうが、得意げな大河を見て蔑ろにするのも気が引けたのか、士郎は拍手と共に「凄い凄い」と子供をあやすように褒める。
 大河は褒められた事で嬉しそうに笑う。
「うん、お姉ちゃんは凄いんだから」
「凄いのは良いけど、もうちょっと日常的に凄くなろうな。家事が出来るとかしないと嫁にいけないんじゃないか?」
 大河は士郎の言葉に謎めいた顔をしてから、思いついたように言う。
「行き遅れたら士郎にお嫁に貰ってもらうから良いよー」
「ちょっと待て。俺に聞きもせずに決めてるのかよ」
 自分勝手と言うか荒唐無稽と言うか唐突と言うか突然と言うか、そんな大河の言葉に呆れたように士郎は言葉を零す。
「じゃあ聞く。お嫁に貰ってくれるー?」
「……良いよ。けど、家事とか少しは出来るようになってたらな」
 少し迷ったように考えてから、士郎は言った。恐らく、迷ったように考えていた時は大河の突拍子も無い行動に呆れつつも、一緒になって楽しんでいる自分の未来でも想像していたのだろう。
「お姉ちゃんは本気出せば凄いんだからー!」
 士郎は何時でもその本気を出してもらいたい、なんて思いながら、子供っぽい姉に苦笑しつつ台所のカレーを見に行った。
 大河は少しむくれながらリンゴを齧り、十分に咀嚼しながら「お姉ちゃんな所を見せてやる」と、秘かに誓ったとか誓わなかったとか。



三秒ルート、経緯



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