朝と夜の境目に、わたしは起きた。
 わずかに暗くてわずかに明るい、ほとんど毎日思っているのに気持ちは少しもなくならなくて、思うたびに不思議だと考えてしまう。
 まだ擦り切れていない畳の匂いは心地良くて、お腹いっぱい吸って堪能してから目を覚ます。体温で温まった布団は妙に居心地が良くて長居しそうになるけど、そろそろ起きなきゃいけない。だって、藤村先生がもうすぐ来るんだから。



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 洗面所で顔を洗い、歯を磨いて眠気を飛ばす。すると空は朝と夜の境目から抜けて朝に分類されていく。徐々に明るくなっていく空をぼんやりと眺めてから、鏡に映る自分を見る。額に張り付いた髪を払って赤いリボンで髪を結う。うん、これで大丈夫。どこから見てもいつもの間桐桜だ。
 洗った顔を拭いたタオルを洗濯機に放り込んでキッチンに行く。さて、今日は何にしようか。
 冷蔵庫と相談した結果、目玉焼きと弱火でしっかりと焼いたベーコンにツナサラダ、お味噌汁はニンジンとタマネギ、それと昨日の夜に余った煮物に決めた。
 お米を炊飯器にセットしてから、藤村先生が来るまでに頭に浮かべた料理を作らなきゃいけない。もちろん、わたしと藤村先生がお代わりする分を含めて。

「おはよー、桜ちゃん」
 いつもの時間通りに藤村先生は衛宮家の玄関を跨いだ。料理は絶妙のタイミングで出来ていて、後はお味噌汁とご飯をよそって食べるだけ。
 テーブルに乗った二人分の料理と食器を並べ終えて、わたしはお気に入りのエプロンを脱いだ。先輩と同じメーカー、デザインの色違い。これを着けると先輩みたいに料理が上手に作れる気がする。
「うん、今日もいい匂いだねー」
 そう言って藤村先生は味の染みた煮物を一つ口に放りこむ。そろそろ待ちきれないみたいだから、早くご飯をよそることにしよう。
 さて、それじゃあ……いただきます。

 六月の暑くなってきた気温の中、わたしは革靴を鳴らして歩く。アスファルトは朝だと言うのに温かいほどになっていて、触れば猫の体温みたいな感じなのだろう。いや、犬の体温かもしれない。
 そんな考え事をしていても規則正しく踏み出される足に感謝して歩きを少しだけ早める。いつもと違う速度は違和感と新しい世界を生み出してくれる。
 雲の流れる速度が少しだけ速いだろうか、電柱がもしかしたら動いているのかもしれない、周りの人たちはいつもよりゆっくり歩いている、なんて簡単な世界の変え方だろうか。
 汗でも掻いたのかあくびでもしたのか、気付かないうちに目元に溜まっていた雫を指の背で拭う。今度はゆっくりと歩いて世界を変えてみよう。

 あまり真剣になれない先生の授業が耳を通り抜けていく。別に授業が受験に関係ないからとか言う理由じゃなくて、単に集中出来ていない私が悪いだけだと分かっているのに授業に意識を引き戻すことが出来ない。理由も解っている。解っているけど、それだけじゃどうしようもないことだから仕方がない。わたしは残りの時間、授業に集中しようという努力で授業のことが耳に入らなかった。
 残りの授業もそんな感じで気づけばチャイムが鳴っていた。

 時計を見ればもう一二時を回っている。チャイムは既に鳴ったはずだから、お昼ご飯の時間なんだろう。あまり空いていないと思ったお腹は僅かに唸りを上げて何かを入れろと繰り返す。鞄の中には朝作ってきたお弁当があるはずだから、それを持ってリノリュウムの廊下を歩き、階段を上って屋上にでる。あまり風のない屋上は日が照って暖かいから暑いの間をさまよっている。
「もう少し風があると快適なんですけどね」
 暑いのはわりと嫌いじゃないけどそれでもやっぱり涼しい方がいいと思う。でも風が出ると埃が舞うからこれぐらいでもいいかな、と思いながらお弁当箱を覆っている包みを解いた。白と水色のチェックを屋上の床に敷いてお弁当箱を開ける。小麦粉を使って冷めても美味しくした若鶏の唐揚げ、先輩に教えてもらっただし巻き卵、今朝も余っちゃった煮物に、ツナサラダとふりかけのかかったご飯がお弁当箱には詰まっている。包みに一緒に入っていたお箸箱からお箸を取り出して、親指と人差し指の間に挟んで手のひらを合わせる。そして、
「いただきます」
 白く輝いている日が照る中、わたしはだし巻き卵をお箸で摘んだ。

 あまり授業が身に入りそうもないからわたしはお弁当を食べ終えてから早退した。でなくても早退する理由はあったのだけど、授業が身に付かないくせに受けてるなんて真剣に受けている人に失礼だと思ったのも本当だから。
 今、私が住んでいる先輩の家に一度戻って着替えてから、日よけの帽子とお財布を持ってまた歩き出す。今日は兄さんのリハビリの日だから。
 数十分も歩くと病院が見えてきた。ペンキを塗り替えたばかりなのか白くてキレイで、中に入ると少し苦手な薬っぽい――学校の保健室みたいな匂いがする。本当は学校の保健室が病院みたいな匂いなんだろうけど、わたしにとっては保健室の方が身近だから保健室の匂いと言う方が当てはまっている。
 ナースセンターで看護士さん達に挨拶をしてから、二階にある兄さんが入院している部屋に向かった。
 兄さんはまだ退院していない。もうそろそろ通院にしてもいい頃なんだろうけど、まだ歩くのも一苦労ということだから兄さんは退院しないでリハビリに精を出している。リハビリを手伝うごとに兄さんはちゃんと歩けるようになっているのが分かる。少しずつ長く、少しずつ速く、少しずつ力強くなっていく様が分かるから、少しずつ嬉しくなっていく。少しだけ哀しくなっていく。
 先輩が、姉さんが、兄さんが、周りの誰かが成長するごとにわたしは劣等感を覚える。結局何も変わっていないのは、何も変わろうとしていないのは自分だけなのだと思い知らされるから。
 病室のドアをノックして、中から兄さんの声が聞こえたことを確認して中に入る。中には女性の看護士さんが一人居て、もうすぐリハビリだから準備をしていると言う。丁度良かったとわたしは思って兄さんの移動を手伝う。ベッドに寝たままの兄さんを車椅子に乗せてリハビリを行う部屋まで運んだ。
 体操で使う平行棒のようなものがある部屋で、兄さんはそれに掴まって立ち上がる。少しだけ震える膝を無理矢理落ちつかせて兄さんは溜め息を一つ吐いた。それから手のひらを平行棒に滑らせてそこまでゆっくりと歩いていく。ゆっくりと言ってもわたしがそう思うだけで、一週間前の兄さんよりも速い歩み。また少しだけ劣等感を覚える。
 リハビリは順調に進行して順調に終わった。この調子なら後二週間ほどで通院にしても大丈夫らしい。最初こそ治りの遅かった原因不明の不調も今は無くなって、普通の患者さんと同じように回復しているらしい。わたしは看護士さんとお医者さんにお辞儀をしてから病院を出た。

 帰る途中に商店街で買い物をしてから家に帰った。和風建築の大きな屋敷は何処か温かくて安心できる。橙色をした優しい日の光が差しこんでいる姿はいつもよりもあったかく感じる。ふと、畳に寝転がりたい衝動が沸いたけど、それをなんとか沈めて料理の下拵えをした。
 今日の夕食は昼間唐揚げに使って残った若鶏をソテーにして、マカロニサラダと具沢山のスープを作った。藤村先生はいつも通りに「美味しいよぅ」と喜んでくれて嬉しかった。わたし自身も良い出来だと思ったから。

 お風呂に入って湯冷めしない内に、わたしはお布団を敷いてその中に入る。押入れの中で少し冷たくなっていたお布団は火照った体に心地良い。茹だった頭は次から次へと浮かんでくるものに対して思考を繰り返していく。畳、物の無い部屋、少し日に焼けた壁紙、橙色の光が灯った小さな電球、部屋の匂い、……そこで思考が停止した。と言ってもわたしが寝たわけじゃなくて、気付いてしまっただけ。
 匂いが違うと気付いてしまったからわたしは少しだけ涙を流した。あまりにも違っていて、あまりにもおかしくないから少しだけ布団を強く掴む。この部屋からわたしの生活の匂いがしたから、先輩が居た時の匂いとは違うから涙が流れた。湯冷めしないようにさっさと入った布団から抜け出して薄暗い廊下を歩く。そして、先輩が居た部屋の前で立ち止まって襖を開いた。
 先輩の匂いがした。物の無い、何の執着心も物欲も無さそうな簡素な部屋からは、わたしの部屋から無くなっていた先輩の匂いがした。わたしは部屋の中で座り込んで、涙を流す。
「寂しいです、先輩」
 涙声が夜に溶けて消えていく。それでもこれはこれから続く長い日のたった一日に過ぎない。五年間の内のたった一日に過ぎないから、わたしは一日を乗り越えなきゃいけない。もしかしたらその時には、劣等感を覚えなくなっているでしょうか?
 疑問すら、静寂の夜に溶けていった。



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Fin



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