蛇の道は何マイル



 身体は相変わらず痛みで悶えている。そして俺はベッドで寝ている。考える事は沢山あるけど、何気なく考えていると思う事は一つ。
「やっぱり、クビだろうな」
 魔術師が他人の弟子の魔術師――正確には魔術使いだけど――を表の世界でとは言え、雇うなんて莫迦な事をするはずが無い。遠坂のライヴァルらしいルヴィアゼリッタ様ほどの魔術師なら特に。
 しかも、遠坂のライヴァルなら遠坂自身が許さないだろう。「わたしの弟子のくせして、なに敵の所行ってるのよ!」なんて言いそうだ。セイバーの昨日の物言いからして言うだろう、多分。
 でも、せっかく仕事にも慣れてきた所なのに辞めるのは寂しいと言うか哀しいと言うか、俺が決める事でも無いんだけどそう思う。
 いい加減意味の無くなった、額に乗っている体温で緩くなったタオルを取り、軋む身体に鞭打って水道水で冷やしに行く。
 ベッドから立ち上がるのも一苦労の身体で居間を通ろうとすると、そこには本当のブロンドの髪を彼女特有の髪型にしたセイバーと、時計塔の『ライヴァル』に子供っぽいなんて言われたらしく、ミニ・スカートとツイン・テールを止めた遠坂、そして古くて少しボロい寄宿舎にはまるで似合わないドレスと、長く伸ばされた金色の髪をお嬢様な縦ロールにしたルヴィアゼリッタ様が居た。なんて言うか、簡単に言えば一触即発、危機一髪、奇々怪々、と言うような険悪なムード漂いそうなメンバーなんけど、俺の目がとうとう可笑しくなったのか、談笑する三人。
 それに頭がどうかしたのか、不用意に足音をさせてしまった。元々静かになんて言ってられない身体だったけど、流石にそれは無いんじゃないか、と自分に文句を漏らす。
「ダメじゃない士郎。まだ痛みが引いてないんだから寝てなくちゃ」
「そうですわ、エミヤ。幾ら身体が治ったと主張しても、脳は痛みを訴えるのですから」
「シロウ。私がタオルを取替えますから、どうぞベッドで寝ていて下さい」
 これだけステレオに良いから寝てろなんて言われたら、そうしなくちゃいけない気分になる。と言うか本当はしてなくちゃいけないんだろう。だけど、今は気になる事がある。
「じゃあ、一つだけ訊いたら休むから。えーと、俺をまだ雇ってくれるんでしょうか、ルヴィアゼリッタ様」
 ルヴィアゼリッタ様。なんて言った時、遠坂の方向から僅かに突き刺さるような鋭い視線を首筋辺りに突き刺された気がした。気がした、ではなく、本当に視線が鋭くなったのだろうけど、そこで負けていては疑問が無くならないだろうから強がる事にする。
「そうですね、ワタクシとてライヴァルの弟子を雇うほど馬鹿ではありません」
 ああ、やっぱりそうだろう。
「ですが、ワタクシが魔獣と対峙する時に使用した宝石を弁償すると言う事で、まだまだエミヤには働いて貰わなければなりません。もちろん、弁償と言う名目ですから給与は先月の半分程になりますが、働いて頂けますわよね? エミヤ」
 口端を艶やか――と言うのか妖しく歪めて、彼女は挑戦的な笑みを俺に向けた。
 ああもう、なんだって俺の周りはこんなに良い人が多いのか。
「もちろん、働かせて頂きます。ルヴィアゼリッタ様」
「それと、普段は『様』なんて畏まらなくても良いですわ。堅苦しいでしょう?」
 なんて、お人好し。遠坂に散々言われていた俺が言うのもなんだけど、それで魔術師を名乗るなんて、一年前の遠坂なら鼻で笑うだろう。俺も鼻で笑われていると思う。
「分かった。じゃあ、ミス・ルヴィアゼリッタって呼ばせてもらうよ。それと、改めて――ありがとう。助けてくれて」
 それだけ言って、そろそろ痛みで崩壊しそうな身体を引きずりベッドに戻る。手には俺とミス・ルヴィアゼリッタが会話している間に、セイバーが冷ましてくれたタオル。ベッドに入ってそれを額に当てると、その冷たさが痛みを癒すような気がした。



† † †



 静寂な場に時計の音がやけに大きく響く。デジタル・タイプでも無い少し古い時計は、一秒を刻む毎に静寂をより意識させる音を発する。
 古めかしくも広さは立派なアパートに、三人の女性が長方形のテーブルに着いている。一人はアップした髪型を編み、それを巻いてリボンで留めている不思議な髪型ではあるが、何処か鋭角な一面を持っていそうな女性。ではあるが、彼女は今ティ・カップの紅茶とテーブルに山とあるクッキィを楽しんでいる為、その鋭角的な一面など欠片も見えない。
 一人は毛先が僅かに波打っている黒髪を放って置いたような、縛りも留めもしていない女性。その眼には猛獣か、或いはそれを狩るハンターのような光を灯し、不思議な髪型の女性と同様に紅茶とクッキィを楽しんでいる。尤も、彼女は不思議な髪型の女性と比べて仕方なさそうに、ではあるが。
 一人の女性は腰辺りまで伸びた金色の髪を縦ロールにし、それを止める為なのか、後頭部に大きなリボンをつけている。彼女は静かにティ・カップを傾け、砂糖を一つ入れた紅茶とクッキィを二人と同様に楽しむ。
 時計の音がやけに大きく響く。そこは既に静寂ではない。クッキィを齧る音だけが延々と続いている。
「ミズ・エーデルフェルト。何しに寄宿舎何かにいらっしゃったの?」
 いい加減、腹も満ちたとばかりに重い溜め息を吐き、凛は紅茶を飲むためでもクッキィを齧るためでもなく、喋るために口を開いた。その言葉は何時もの彼女等しくない、いや、らしいのかもしれない猫を数匹被ったような口調と声。だと言うのに視線と雰囲気はやけに攻撃的で刺々しい。
「エミヤはうちの屋敷で働いているものですから、主人としては様子を見るのが出来た者、と思いまして」
 ルヴィアゼリッタはその刺々しい言葉を流しつつ、自分の用件を猫と言うフィルターを通して言う。セイバーは静観を決め込み、頷きつつクッキィを齧り、無くなった紅茶を淹れている。と言ってもティ・カップにティ・バッグを淹れ、お湯を流し込むだけなのだ。いくら不器用な人でも出来る。
 そんなセイバーの横では静かに爪を磨ぐ獅子と、口内で牙を剥く龍の姿。或いは荒野にでも放り出されて、極限まで野生化した猫だろうか。
「ミズ・エーデルフェルト、猫はもう良いわ。二匹だか三匹だか分からないけど、取り敢えずそれを顔から引っぺがして」
 ルヴィアゼリッタは少し眉間に皺を寄せてから、仕方なさそうに溜め息を吐いて優雅にでも決めていた顔から人間らしい――と言うか感情のある人の顔になる。
「良いでしょう。この際、猫も何もありませんわ。それで、エミヤの様子はどうなのです? 随分と苦しんでいますけど」
 ルヴィアゼリッタが顔をベッドのある寝室の方に向けると、凛は少し堅い表情をして言う。
「大丈夫、後遺症はないわよ。見たところ毒も受けてないし、身体の傷自体は完治してる。痛みはある程度耐えてもらうけどね」
 ルヴィアゼリッタは凛のその言葉に安堵したように溜め息を吐いてから、紅茶を一口飲む。普段は茶葉から淹れられている紅茶を飲んでいる彼女には、ティ・バッグの紅茶では満足しないだろうかと思われたが、そうでもないらしい。
 彼女は生まれながらにして上質な食事を与えられ育てられたのだが、一般的な品物でも飲めないと言う事は無いらしい。紅茶は一般流通している物でも質が高いのか、凛が常備用意しているティ・バッグが質の高いものなのかもしれない。
「凛、クッキィが足りません」
 半分程に減った紅茶にポーションのミルクを入れていた凛がテーブルを見ると、山と積まれていたはずのクッキィは残り僅か二つになっていた。
「セイバー、食べ過ぎ。朝食なら食べたでしょう?」
「ですが、もう時計は一二時を示している。今は昼食の時間だと思います」
 凛はそうみたいね、と呟いてクッキィを補充し、ついでにスコーンとクロテッド・クリーム、数種類のジャムもテーブルに置いた。それからキッチンに立ち、パンと数種類の具材を冷蔵庫から出し、マヨネーズやマスタードで味を整えてパンに挟むと、それを二つに切って皿に並べてテーブルに置く。
 印象的には時間の早過ぎるハイ・ティと言ったところだろうか。
「ちょっと手軽だけど、まあ味は悪くないはずよ」
 セイバーは少し手を抜いたようなサンドウィッチの数々に眉間に皺を寄せたが、一口齧ってその表情は一変した。恐らく、想像したような雑さは無く、何時もの凛が作る料理の味だったのだろう。
 セイバーは味を確かめるように頷きながらサンドウィチを食べ終えると、紅茶を一口飲んで二つ目に手を伸ばした。
「食べないの? ミズ・エーデルフェルト」
 凛もサンドウィッチを齧りながら、手を出さないルヴィアゼリッタにそう聞いた。
「食べてもよろしいんですの?」
「食べるな、なんて言うほど意地悪くないつもりだけど? 口に合いそうもないって言うなら無理して食べないでもいいけど」
「頂きますわ」
 そう言ってルヴィアゼリッタはサンドウィッチを一つ取ると、小さく齧る。それは食べると言うよりは毒見に近く、端を食べたぐらいでは大して味は分からないだろう。何しろ、パンの耳がついているのだし。
 齧った部分をもう一度齧り、咀嚼する。
「口に合うかしら?」
「えぇ、とても……美味しい」
 凛は意外と素直なルヴィアゼリッタに少し驚いてから、自分の作った中で一番美味しそうなのをルヴィアゼリッタに薦めた。
 セイバーも全種類食べた中で自らが一番良いと思った物をルヴィアゼリッタに薦める。それは甘酸っぱいトマト、良い触感のレタス、良い香りのハムに、挟まっている中では定番とも言えるキュウリのサンドウィッチだった。

 三人はそれから数一〇分ほど話し合うと、まるで形の合ったパズルのピースのように仲良くなり、最初に合った固さもキツさも解け、談笑するまでになっていた。
 一〇数とあったサンドウィッチは既に無くなりスコーンも消えて、残っているのはクッキィのみ。彼女等はそれを齧りつつ談笑を続けていると、寝室の方から音が聞こえた。
 三人はそっちの方向を向くと、垂らした手にタオルを持ち、ふらついたような格好で止まっている士郎の姿。
「ダメじゃない士郎。まだ痛みが引いてないんだから寝てなくちゃ」
「そうですわ、エミヤ。幾ら身体が治ったと主張しても、脳は痛みを訴えるのですから」
「シロウ。私がタオルを取替えますから、どうぞベッドで寝ていて下さい」
 まるで機関銃のように彼女等は言い、士郎は少し竦むようにして顔を引き攣らせた。竦んだ身体と持ち直すと、士郎はテーブルの前に座り、ルヴィアゼリッタを見る。そして何かを決めたような顔をすると、口を開いた。
「じゃあ、一つだけ訊いたら休むから。えーと、俺をまだ雇ってくれるんでしょうか、ルヴィアゼリッタ様」
 こんな時に何を言ってるのか、なんて視線で凛は士郎を睨み、同時に呆れたような表情を露わにさせる。随分と器用なものだ。
 ルヴィアゼリッタも内心、少し呆れてから、その生真面目さが士郎の良いところなのだろうと改めて納得する。
「そうですね、ワタクシとてライヴァルの弟子を雇うほど莫迦ではありません」
 少し考えてからそう言い、彼女は少し意地悪をする事にした。自分が大変な時に他の事を心配している暇などないだろうと、彼女は遠回しに言いたかったのかもしれない。
 案の定、士郎は酷く情けない顔をする。まるで彼女と士郎が初めて会った時のような、雨に降られた子犬に似た表情。
 ルヴィアゼリッタはその顔を見て少しは反省すれば良いだろうと思い、言葉を続けた。
「ですが、ワタクシが魔獣と対峙する時に使用した宝石を弁償すると言う事で、まだまだエミヤには働いて貰わなければなりません。もちろん、弁償と言う名目ですから給与は先月の半分程になりますが、働いて頂けますわよね? エミヤ」
 彼女は確信している。断るはずが無いと。それで尚、挑戦的に訊く。やるのか、やらないのか、と。
 そして士郎はその挑戦的な笑みの意味も分からず、地獄に垂らされた蜘蛛の糸でも見たような笑みを浮かべ言うのだ、彼女の思惑通りに。
「もちろん、働かせて頂きます。ルヴィアゼリッタ様」
 と。その少し赤い嬉しそうな顔は、凛の視線が孔を穿てるかと思うほどに鋭くなっている事には気付いてないのだろう。
 なんて御目出度いのだろう、等と思いながらルヴィアゼリッタは付けるように言った。
「それと、普段は『様』なんて畏まらなくても良いですわ。堅苦しいでしょう?」
 特別ですわよ、なんて最後に言いながら彼女は口端を引き上げた。分かる人にしか分からない薄い笑みは、士郎には十分理解出来た様で、嬉しそうな光を瞳に灯した。
「分かった。じゃあミス・ルヴィアゼリッタって呼ばせてもらうよ。それと、改めて――ありがとう。助けてくれて」
 テーブルに士郎が着いた時にセイバーが抜き取っていたタオルは水道水で冷やされ、士郎の手に戻った。
 士郎は戻り際に本当に嬉しそうな笑みを浮かべると、寝室にふらつきながら戻って行く。
 ルヴィアゼリッタが戻る士郎を引き止め様と声をかける為に呼ぼうとしたが、彼女は声を発する前に声を発するのを止めた。今にも床に崩れ落ちそうな士郎の身体を気遣ったのだろう。
「全く、お人好し……」
 ルヴィアゼリッタか凛か、それとも両方かがそう呟き、士郎は見送られた。

 ルヴィアゼリッタと凛は話を続ける。その脇で紅茶を啜っているセイバーを置いてきぼりにして。
 彼女等の話は言うならば、ひどくマニアックだ。そして、その専門かそれについて理解していなければついて行けないような話。それに入れないセイバーは紅茶と再度足された食料を口に運びつつ、彼女等の話を右耳から左耳に素通りさせながら多少五月蠅いBGMにでもして時間を退屈に変化させながら時を過ごしていた。
 セイバーはそのままではいけないと思ったのか、隣の寝室で苦しんでいるだろう士郎の為に、風呂場から洗面器を持ってきて、その中に水を一杯にし寝室に入っていく。話をしている彼女たちは気付くことなく、マニアックな話を続けている。
 つまりは、
「あの宝石は純度が低くてダメ」
 等、
「あの大きさでは許容量が少ない」
 等の、宝石魔術に関する論議――ではなく、売られている宝石に対しての愚痴等が飛び交う。尤も、その比率は八割がた凛からルヴィアゼリッタに零されたものなのだが。何故ならば、ルヴィアゼリッタは宝石に問題がある方が少ないからである。学生ながら洋館を買い取ってそこに住む彼女は、寄宿舎に住む凛と違ってお金に不自由などしていないのだ。だから必然、扱う物はクオリティが高い物になり、問題など多いはずが無い。
 対して凛は、そんなに金額がかさむような物は買えないのだ。研究費として渡されている資金とは別に協会の仕事をこなして稼ぐ彼女だが、宝石と言うのは高い。それに純度が高く、大きい物なんて高いに決まっている。カッティングされたものじゃなく、原石だとしてもだ。それが尚且つ凛独自のルートで一般的に売られているものよりも安いとしても、高いものは高い。
 凛が通常使用するような宝石――つまりは、使い捨ての限定礼装は比較的安物である。一回の仕事で数個買えるほどの安物であっても、彼女が魔力を込めれば十分な威力を発揮する。まあ、雑魚に対してならば、の話であるが。
 それに、凛は通常宝石よりもガンドを使用する。宝石は最低でも何日と魔力を込めなければ使い物にならないし、何より使い捨てだ。宝石魔術を扱うが故に貧乏性の彼女は、出来るならば宝石を使いたくもないのだろう。
 そのような事情があり、彼女は化け物クラスが相手でもマトモに使えると言う宝石は殆ど持っていない。魔力を込めていないからではなく、その質を持った宝石自体が無いのである。
「ミズ・トオサカ。仮にも宝石魔術師ならば、質の良い宝石を求めるべきでは?」
「そんなほいほい買えたら苦労はしないっての。うちは金持ちじゃないんだから、技術で勝負よ」
 実際、凛は技術を鍛えている。簡単に言えば魔力効率。彼女はセイバーを使い魔にしていると言う時点で、時計塔の他の学生から魔力量においてかなりハンディを負っている。そこで、彼女は魔力総容量を増幅させると共に、魔力効率を良くして少しでも多く魔力を使おうとするわけだ。
 が、凛がそちらに興味を向け技術を鍛えていると言っても、ルヴィアゼリッタ自身に技術が無いわけではない。仮にも時計塔主席の彼女は、魔力総容量も然る事ながら、技術的にも高い位置にあるのだ。ならばこその主席。その肩書きは伊達ではない。
 位置的にならば凛はルヴィアゼリッタに並ぶ事は無いだろう。だが、ルヴィアゼリッタは凛をライヴァル視している。英霊であるセイバーを使い魔にしていながら、尚且つ自身の成績も優秀である凛を。更なる要素として、同じ師父、同じ魔術、同じ性格をしているからだろう。同じである事、自分と近しい存在であるからこそ、彼女は凛をライヴァルとして視ていて、認めている。
 凛もルヴィアゼリッタをライヴァルとして視ているのだが、前提が違う為ライヴァルと言うよりは敵にカテゴリィされている。いや、いた、か。談笑して仲良くしていて、今更敵も無いだろう。
 それから彼女等は数時間前まで敵だったとは思えないほど和やかに魔術論を交わしていた。

 数時間ほど話すと空も暗くなり、ルヴィアゼリッタは家に帰っていった。凛は魔術論議を交わすために必要だと工房から持って来た宝石を片付け、工房に戻し、そろそろセイバーがお腹を空かせただろう、なんて考えながら夕食の準備をする。
「考えてみれば、料理の用意するのも久し振りね」
 料理の下拵えを進めながら、凛は呟く。
 ロンドンに来てからの一ヶ月、ほぼ全ての食事の用意を士郎が行ってきた。別に凛が怠けていた訳ではなく、士郎が一番時間があるので、料理を担当しているだけである。
 が、今現在は士郎がダウンしている為、凛が代理としてキッチンに立つ。凛は頭の中でメニューを考えてから、冷蔵庫を見て簡単に出来そうなものを数種作った。簡単なものだったが、セイバーには好評だった。

 夜も深けた頃、凛は工房で魔術書を開く。机と椅子は安物だが、古めかしい雰囲気があり丈夫そう。脇にはソーサーに乗ったティ・カップが置かれ、湯気が立ち上っている。
 魔術書は形容しがたい文字で書かれていて、少なくともアルファベットではない。
 彼女は少し大き目のメガネを掛け、魔術書を睨む。
 それから数分経つも、彼女の眼が動く様子も魔術書のページが捲られる様子も無い。彼女はどうやら魔術書ではなく、別の事に集中しているらしい。
 彼女はついに一ページも捲る事無く、魔術書を閉じた。



† † †



 隠し通して働いてたなんて知って怒ってやろうと思ったけど、そんな事出来ない。
 わたしがその場に居ると知ってなお働けるか? なんて訊いて、働けと言われてあんな安堵したような顔されたら、怒れない。
 士郎が自分で考えてそれが最善と思って出した結論だと言うのは分かる。それが負担になるのは流石に分かっているだろうし、鍛錬の妨げになる事だって分かっていたはずだ。ミス・ルヴィアゼリッタの魔力を感じ取れなかったのはわたしの弟子として恥ずべき事だろうけど、それはまあ、置いておく。
 いやもう、建前とかはどうでも良い。結論を出そう。ようするにわたしは、気に食わないのだ。
 ミス・ルヴィアゼリッタの所で働いて他のが気に食わないし、わたしに働いている事を隠していたのも気に食わない。家計簿が赤字であった事にも気に食わない、更にそれを表に出さず、食事の質も量も全てそのままで自分は縁の下の力持ちになろうとしている士郎が気に食わない。
 良い事をしたのならばその分褒められるべきで、悪い事をしたのならばその分怒られるべきだ。ああもうつまりは、衛宮士郎は褒めて怒ってやりたいのに、出来なくて苛ついているのだ、わたしは。
 考えてみれば、わたしが悪いと思うところもある。家計簿をチェックし忘れたのは私の油断。ケモノ――キメラを取り逃したのも私の油断だし、士郎の好意に甘えていたのも私の油断だろう。気付けなかったと言う事を油断と言うのかは分からないけど、気が回らなかった事はたしか。
 だけど、と良い訳をする。責めて自分を悔やんで落ち込むなんて『遠坂凛』らしくない。起きた事は反省にして、それを糧にして次の一歩を踏み出す。それが遠坂凛らしい。
 ――良し。
 まず、士郎が目覚めたらキツイ鍛錬にでもしてやろう。それから自分を無視して褒めて怒ってやって、お礼を言おう。
 一応、支えてくれたんだから。方法は間違っていたとしても。
 遠坂凛はそれらしくいかなきゃいけない。あくまでも遠坂凛は魔術師。冷静に客観的。合理的で無駄をしない。それが基本。でも、褒めるのも怒るのも無駄だ。その辺はまあ、魔術師、遠坂凛ではなく、一人間、遠坂凛と分けてやれば良いのだ。問題ない。
 自分への良い訳も完了して、落ちつく為に紅茶を啜る。
 冷めたダージリンは些か渋く、敗北の味がした。



† † †



 痛いのか、熱いのか。判別がつかないぐらい痛みは灼熱している。もしかしたら、両方感じていると言うのが正解なのかもしれない。
 灼熱は何処か昔を思い出させる。具体的に言うなら、一一年前。黒い太陽と灼熱の野原。今でも夢に見る地獄の具現。
 それに比べれば魔獣に所々千切られて、腹掻っ捌かれてたぐらい何でも無い。多分。
 痛みだって耐えれないほどではないのだから、大丈夫だ。強引に言い聞かせる。遠坂曰く、投影とは自分すら騙す魔術なのだ。ならば俺が痛くないと自分に信じこませれば、ある程度の痛みはカット出来るだろう。
 だからそこに至る思考は僅かに断線――脱線させる。衛宮士郎の身体は治っているから、痛くなどないのだと。
 額に浮かんでいるだろう脂汗も額にあるタオルを擦ればそんなもの形跡も無くなる。背に書いている汗もパジャマを洗濯すれば分からない。ほら、簡単だ。衛宮士郎は痛くないのだと信じ込み、本当に痛くなくなったら戻る。それだけなのだから。

 目が覚めた。空は何時も通り曇天、湿度はあまり高くなく、涼しくて過ごし易い気温。
 身体が少し鈍いけど、大丈夫。でも激しく身体を動かすのは辛そうだと思い、今日の自己鍛錬は控える事にした。
 まだ僅かに暗い空の内にシャワーを浴びる事にする。涼しい気温だと言うのに湿ったパジャマと、少しべたつくかもしれない肌が不快になる前に。
 少し身体が動かしにくいけど、痛みを感じない。正確には痛みを感じないと言うよりは、感覚ごと痲痺しているような感覚。
 何時ものように烏の行水とばかりにシャワーを浴び終えると、朝食の用意をする。今日は時間をかけて、ブリティッシュ・ブレックファストといく事にした。
 目玉焼きは両面焼いて固焼きにし、半熟にはしない。それは好みのせいと言うよりも、その方が安全だからだ。
 トマトは櫛切りにし、人参は千切りにして軽く茹で、歯応えを残したまま温野菜の付け合わせにする。
 ジャガイモはマッシュ・ポテトにする。滑らかにする為にハンド・ミキサーで執拗く遣っておくと、良い感じになる。
 問題はソーセージ。朝食か弁当かで定番のソーセージなのだが、この国のソーセージは焼く時間が長い。と言うのも生のタイプであるからで、中までじっくりと火を通さなければいけないのだ。
 その分、じっくりと火を通して焼いた物は良いのだけど、些か時間がかかり過ぎる為、家では滅多に食卓に上がらない。
 時間がかかり過ぎるソーセージを使う事にして、フライパンで焼いていく。油は引かない方が良いらしく、そう習ったから俺も引かないで焼く。
 数一〇分ほどじっくりと焼けば完成。熱い内に食べると美味い。
 ソーセージをじっくりと焼いている間に遠坂とセイバーが起きたみたいで、洗面所の方から水音が聞こえてくる。
 後はハムを冷蔵庫からだして皿に盛れば完成。パンは焼く人は焼いてもらって、焼かない人はそのまま食べてもらうため、焼かないで出す。
 遠坂たちが顔を洗い終わったりしてリヴィングに来ると、先制攻撃とばかりに挨拶をした。
「おはよう。遠坂、セイバー」
「おはよう――って、士郎。何勝手に動いてるのよ、痛くないはずないでしょう?」
「そうです。我慢強いのは良い事ですが、無理は良くない」
 ――いや、痛くない。衛宮士郎は痛みを感じていない。
「いや、痛くないんだ。全力で動けって言われたら無理だけど、普通に動くぐらいには十分回復した」
 遠坂は随分と疑り深そうな顔をして俺を睨んでいたけど、なんとか納得したようで良かった。ソーセージは冷めると美味しく無くなるから、早く食べてもらった方が良い。
「じゃ、もう朝食用意してあるから食べようか」
 そう云って各グラスに一〇〇パーセントのオレンジ・ジュースを注ぎ、手を合わせてみんなで「いただきます」と言って食べ始めた。
 出来は良かったみたいで、セイバーが喜んでいた。

 朝食を食べ終え、出勤する。
 尤も、そんな格好良い事でもない。ただ歩いてエーデルフェルト家に向かうだけなのだから。
 エーデルフェルト家に着いて、まず挨拶をした。一日休んですいませんでした、と。メイド・チーフは「風邪はもう治ったのですか?」なんて訊いてきたけど、適当に誤魔化した。少しリアルな嘘をついてくれたミス・ルヴィアゼリッタにお礼を言っておくべきだろう。
 一日空いたけど、何時も通りに掃除をする。少し念入りにする事にしようと思い、力を入れる。
 廊下の隅から隅までを念入りに掃き、モップで拭く。とは言っても遣り過ぎるとワックスが剥げるから、モップ自体に力を入れ過ぎるわけにはいかない。
 丁寧に、且つ細やかに繊細に。例えるならば、歯茎を傷つけないように歯ブラシを動かすような感じ。それを繰り返して済ませてから、厨房に向かう。
 時計は一一時三〇分を少し過ぎたところ。念入りにやったからなのか、身体の動きが鈍かったのか、何時もより少し遅い。
「すいません、遅れました」
「いや、病み上がりならこんなもんだろ? 今日は俺がメイン作るから、坊主はサイド作ってくれ」
 なんて、料理長は言いながら、オーブンを見る。匂いからして今日の昼食は、ロースト・ビーフ辺りだろうか。恐らく一緒にロースト・ポテトも焼いているだろうから、サラダや箸休めを作る事にする。
 キュウリを少し厚く斜めに切り、レタスを適当な大きさに千切る。トマトは櫛切り、それにノン・オイルのツナ缶の水分を半分程にまで切り、解して入れる。ドレッシングはオリーヴ・オイルがベース。キュウリのピクルスの微塵切り、タマネギの微塵切り、粗いブラック・ペッパーを入れたら出来あがり。簡単だけども、材料が良ければ美味しいのだ。
 サラダを作り終えると、付け合せを作る事にする。ロースト・ポテトだけではでは不十分かもしれないし。
 メインがロースト・ビーフだから、ニンジンのグラッセにしよう。ロースト・ポテト、マッシュ・ポテトの次に良く付いて来る甘いニンジン。まあ、俺はあまり隙じゃないんだけど。なにしろ、食事――しかもおかずを食べてる時に甘い物なんて食べれたものじゃない。デザートなら別だろうけど。
 まあ、でも付いて来る物なのだから作る事にする。甘さは控えめで。
 今度は箸休めを作る事にする。いや、正確にはフォーク休めかもしれない。或いはナイフ。まあ、如何でも良いけど。
 オニオン・スライスをヴィネガーで味付けし、サニーレタスで巻いてそれを幾つか皿で並べれば完成。箸休めなのだからこれぐらいで良いだろう。
 出来たランチをミス・ルヴィアゼリッタに出してから、賄いを作る事にする。予想通りに今日の賄いはロースト・ビーフのサンドウィッチ。
 とは言っても、単純にロースト・ビーフをパンで挟んではい、終わりじゃない。味付けにしても三種類。グレイヴィー・ソースに、ソルト・アンド・ブラック・ペッパー、それにヴィネガー。具材は輪切りのトマトとレタス。追加でロースト・オニオンもある。
 三種のロースト・ビーフのサンドウィッチは好評だったようで、休憩時間が終わる頃にはサンドウィッチは全て無くなっていた。

 使用人たちが昼食を食べ終えると、何時もは来ないはずのミス・ルヴィアゼリッタが厨房に来た。何か、眉間に皺を寄せている。
 何か食事に不備でも有ったのかと不安になっていたら――
「エミヤ、ちょっと来て下さる?」
 なんて、少し不機嫌な声で名指された。
 やっぱり、アレだろうか? オニオン・スライスをヴィネガーで和えただけと言うのは簡単過ぎただろうか? それとも、サラダのドレッシングが不味かったんだろうか?
 不安は募るも、そんな事口に出せず言われた通りに付いて行くしかない。メイドや執事の人から受ける視線は同情か哀しみか、その種の眼差しを背に受けながら歩く。テーマ曲はドナドナ。いや、売られるわけじゃなくてクビにされるか怒られるかだろうけど。
 少し歩いて、ミス・ルヴィアゼリッタの私室に入る。それでもミス・ルヴィアゼリッタは止まる気配無く、奥に進んでいく。
 彼女の私室は畳に換算するなら十数畳は有る。その最奥に進み、彼女はそこにある小難しそうな本が並んだ本棚に手をかけた。
 一瞬、眼を疑った。それっぽいとは思ったけど、本棚は横に開き、そこには地下室らしき場所に続く階段がある。ああそうか、それがミス・ルヴィアゼリッタの工房なのかと思った瞬間、何かがオカシイと気付いた。料理で怒られるだけで、自分の工房に招くだろうか? と。
 そこで遠坂に聞いた話を思い出した。魔術師が自分の工房で戦うと言う事は、敵の魔術師を確実に殺す事、と言う話を。
 不安が恐怖に変わりそうになる。ただでさえ全力で動けないと言うのに、工房に入るなんてバカとしか言い様が無いだろう。遠坂とセイバーにこっ酷く叱られそうな気がしたけど、それで済むのなら安いことだ。
 階段を下り終わり、ミス・ルヴィアゼリッタの私室よりかなり広い部屋に辿り着くと、彼女はその場で反転して言う。
「エミヤ。のこのこと工房に付いてくるなんて、よほど魔術に自信がありますの? それともワタクシを見下しているのかしら?」
 彼女は酷く不機嫌な表情をして、攻撃的に俺を睨む。
「いやいやいや! 自信なんて無いし、見下しても無いです。ただ工房に入る時は『工房に入る』と言う意味は忘れていただけで」
 その言葉で、彼女の不機嫌さが増した気がした。
「アレで自信が無いと言うのにも腹が立ちますけど、そのお気楽さと言いますか警戒の無さと言うのも腹が立ちますわね。……まあ、エミヤらしいですけど」
 そう言ってミス・ルヴィアゼリッタは呆れたような溜め息を吐き、敵意を無くした。けども、張り詰めた雰囲気はそのまま。
「いくつか質問させて頂きますけど、素直に答えなさい。まず一つ、貴方の魔術は何?」
 ああもう、いきなり確信。何故、魔術師になったのか、とか如何言った経緯で、とかの質問は興味に無いらしい。
「ノー・コメント――といきたいですけど、隠す事でも無いんで答えます。魔術が使えるのは習ったから、今の師匠は遠坂ですけど、前の師匠は切嗣(オヤジ)です。魔術は強化と投影の二つしか出来ません」
 真面目に答えたのに、彼女は額に青筋でも浮かべそうなほど怒っている。
「そうではなくて、貴方の魔術――投影が何故あそこまで完成度を持っているか訊きたいの。貴方が未熟な事なんて、百も承知ですわ」
 ああ成る程。確信の更に奥か。いや、当然だろうけど。
「遠坂の話では属性が特殊らしくて、剣と言う属性なんですけど、それで剣のみ投影の完成度が高いらしいです」
 流石に固有結界の事はバラすわけにはいかないから、本当の事を織り交ぜて誤魔化す。嘘――誤魔化しと言うのは、本当のことを混ぜるとバレ難いらしい。
「――成る程。それならあの時盾じゃなく剣を投影したのも分かりますけど、何故投影なのです? 剣と相性が良いのなら強化の方が効率が良いのではなくて?」
 本当、細かい事に気がつく人だ。確かに強化の方が極めるのなら良いのだろう。極めれるのならば。生憎と、衛宮士郎の才能と強化は遠い。だから極めることは難しい。
「それは、その、投影した方が武器が強いんですよ。ランクは下がりますけど、元が強いんで」
 投影魔術と言うのは、本来ならば無い物の代わりと造ると言う魔術らしく、とても戦闘で使うような魔術ではない。造ったとしても数分で壊れるし、効率など欠片も無いのだ。
 だから、その説明は失敗していた。
「投影して尚、普通の物より強いとなると、魔術効果の付加武器か宝具クラスの投影になりますわね。それにキメラの攻撃に耐えるとなりますと、外見だけではなく、本質が多少なりとも投影出来ていると考えられます。エミヤ、貴方何者ですの?」
 ――泥沼だ。シリアスな雰囲気だけじゃなくて、無くなった敵意がまた生み出されている。誤魔化すのも限界だろう。
「その、実は俺にとっての強化って言うのは投影より難しくて、投影の方が簡単なんだ。属性が剣って言うよりは剣を造るって感じなのかな。そう言う風らしくて、強化より効率の悪い投影の方が俺向きって事なんだけど」
 と言ってミス・ルヴィアゼリッタを見ると、納得いったようないかないような顔をしている。随分悩むような表情。
「まあ、嘘はついていないようですし、これで質問は止めておきます。けど、言いたい事はありますわね」
 シリアスな雰囲気など消えてしまったのに、嫌な予感がする。
「簡単に魔術師が他の魔術師に使える魔術を教えるなんて、一体どう言ったつもりですの。魔術師として、自身の魔術の隠匿は最低条件ですわよ?」
 睨みと呆れた表情を同居させて、ミス・ルヴィアゼリッタは俺を見る。
 遠坂にもそう言われましたけど、切嗣(オヤジ)は魔術は必死になって隠すようなものじゃないって言ってたから隠してないだけなんです。なんて言ったら、遠坂の時のように怒られるのは目に見えてるから止めておいた。
「それから、」
 まだ何かあるのかと思い、自分に呆れた。本当は剣製じゃなくて人を呆れさせる才能のが有るんじゃないかと思うぐらい、俺はそう言う奴なのかと。
「昼食、エミヤがメインじゃないのが残念でした」
 不意打ちだ。完全に不意打ち。そんな事言われたら、恥ずかしくなる。
「すいません、掃除に集中してて、厨房入るの遅れたんです」
 俯いて言った。目を見て話すのが礼儀と言うけど、今は気恥ずかしくて目どころか顔も見れない。早く、何処かに逃げたい。
「俺、仕事あるんですけどもう戻って良いですか?」
「そうでしたわね。もう戻ってよろしくてよ。時間取らせてしまって悪いわね」
 ミス・ルヴィアゼリッタは自分で何を言ったか、なんて理解しないでそんなことを言うのだ。
 全く、酷い。俺は失礼にも簡単な礼だけで、工房から立ち去った。

 窓を拭く。
 何時ものように、何時も以上に丁寧に窓を拭く。それはもう慣れた事。だから、不思議に思った。
 たった一ヶ月続けただけで、それが日常になっている。それが無いとどうにも違和感があるのだ。
 だから衛宮士郎はもう、働ける限り廊下を掃除し、料理を作り、窓を拭く。それが衛宮士郎の一日に組み込まれてしまっているから強引に歯車を抜き取る事なんて出来ない。
 けしてそう言う風に作られた訳じゃないし、生み出されたわけじゃない。ただ好きだからそうしてる。
 言うのなら趣味に近くなっている。掃除は相変わらず面倒臭いと思うけど、キレイになるのは気持ち良い。
 窓ガラスを顔が映りこむほどキレイに磨いて、厨房に入った。
「さて、ディナーは何にしましょうか?」
「そうだな。昼がロースト・ビーフだったから、軽い方が良いんじゃないか?」
 成る程、それもそうだ。
 イギリスの食事は大体ヴォリュームが多いのだけど、キチンとバランスを考えたりもするらしい。
「じゃあ、パスタなんてどうでしょう。主菜にもなるし、それ自体炭水化物だし丁度良いんじゃないでしょうか」
「んじゃそうするか」
 料理長はそう軽く言って、大鍋に水をたっぷりと入れコンロに掛ける。塩を適量水の中に入れて溶かすと、乾物を置いておく所から乾燥パスタを取り出す。
 パスタの種類はスブラカペリーニ。あっさりとしたソースならこれだろう。
「ベースは何にします? トマトも良いですけど、オイルも良いですし」
「そうだなぁ。ま、坊主が作るんだから俺はどうでも良いけどよ」
 ――相変わらずサボる癖があるらしい。
 まあ、いつもの事なんだけど。それに、昼は俺がメインじゃなくて残念、なんてミス・ルヴィアゼリッタに言われちゃ、作りたいし、丁度良いかもしれない。
 が、生憎と、俺はパスタに詳しくない。俺のメインが和食なのもあるけど、洋食は本当に齧る程度なのだ。基本が出来ているからレシピを見れば大体作れるけど、奥深くまでやれるかと言われれば出来ないと答える程度。
 なら、意識を変えるしかない。パスタが洋食でしか作れないなんて決まっていない。なら和風にすれば俺の領域になる。
 意図的に意識を切り換え、冷蔵庫を覗く。――まあ、何とかなりそうだ。
 エキストラ・ヴァージン・オイルとレモン汁、醤油、おろした生姜、丁寧に挽いたコショウを混ぜ合わせ、ソースにする。パスタが茹で上がる前にトマトを湯剥きし、種を取り除いて角切りにしてソースに突っ込む。ある程度馴染ませるように掻き回したら、放って置く。
 パスタが茹で上がる少し前になめこをその中に放り込んだ。料理長が大丈夫か? なんて顔をしてるけど、関係無い。俺に任せたのだからそんな顔はしないで欲しいと思ったけど、無理だろう。
 パスタを茹で終えると、湯切りをしてから冷水に放す。十分にパスタとなめこを冷まし終わったら今度は水気を切り、ソースの中にぶち込む。
 パスタとソース、なめこを全体にソースが絡まるように混ぜたら、それを皿に盛る。が、まだ出来あがりじゃない。
 さっき取り出しておいた大根をすりおろし、パスタの上に乗せてから万能ねぎを数本ざく切りにして大根おろしの周りに飾る。
「よし、出来た」
「……大丈夫かよ、それ」
 味見をした時点では美味しかったんだけど、味覚の相違については考えてない。まあ、美味しい物は万国共通、多分大丈夫だろう。ミス・ルヴィアゼリッタ和食好きだったはずだし。不味かったら、次に期待して下さいと言おう。ああ、俺も随分図太くなったものだ。
 タキシードをクローゼットに戻して私服で裏口まで行くと、何故かミス・ルヴィアゼリッタが居た。
 ……もしかして、やっぱりだろうか?
「エミヤ、身体の調子は良いの?」
 ああ、違った。
「はい。まだ全力じゃ動けないですけど、痛みはもうすっかり」
「そう。それは良かったですわ。後、もう一つ用件が」
 こんどこそ、だろうか?
「料理、美味しく頂けました。エミヤの味覚はワタクシに非常に合っている様です」
 なんて言って、ミス・ルヴィアゼリッタは笑った。
 ああもう、反則だ。大人びた彼女なのに、その時酷く歳相応と言うか、それよりも下に見えた。それが可愛いなんて思って、顔が赤くなりそうだった。
 今日、二回目だ。こんな事。狙ってるんじゃないかと思うほど、彼女は本当に嬉しいことを言ってくれる。
「Thanks. my master」
 それが精一杯だった。短く言ってぎこちなく笑い、不器用に外に出る。夕方の冷えた風が少し熱くなった顔に心地良い。
「いや、これは浮気とかじゃなくて、ちょっと見惚れただけだ。美術品とか見るに近い感覚だ、うん」
 誰にでもなく言い訳をしながら歩く。それでも、俺がミス・ルヴィアゼリッタに見惚れたなんてバレたら、遠坂からは長い説経が待っている気がする。なんとなく、直感で。
 遠坂自身はあっさりした性格なのだけど、気に食わない事には長くなるような気がする。まるでこの薄暗く続いている寄宿舎までの道。
 なら、大丈夫か。幾ら長いと言っても終わりがある。辿り着く。だから道。どんなに長い説教でも終わりはあるのだ。ただ、終わりまでが途方も無く長く感じるだけで。
 まるで蛇の道。下が動いて今にも振り落とされそう。或いは、気持ち悪くて歩けない。まあ、俺は蛇嫌いじゃないから大丈夫だけど。
 蛇の道は言いかえれば正義の味方になる為の道。その蛇は特別強暴で猛毒を持っている。だから説教なんて子供の蛇程度なのだと言い聞かせる。
「まあ、なんとかするしかないよな」
 蛇の道は何マイルにも長い。だからまあ、休みながら歩くしかない。
 それに考える事は山ほどある。セイバーが満足する料理の作り方、とか。
「さて、今日は何にするか――」

 今度は三人分――いや、量で言えば四、五人分は作らなければいけない。朝はマッシュ・ポテトにしたから、ジャガイモを使うとしてもマッシュ・ポテトは作れない。
 少し考えて、ポテト・サラダにする事にした。メインはボーク・ソテーで、後はスープでもつければ良いだろうか。主食はこちらに来てからはパンばかりだから、ご飯も食べないと思うのだが、やはり日本食の材料は高く、買って作ったとしても質が良いわけではないから、大人しく洋食を食べている。
 まあ、和食メインに作っていた俺は残念なのだが、和風の味付けが出来ないと言うわけではないから、まあいいかと思っている。
 さて、まずはポテトを茹でる事にする。土を落とし、芽を取ってから皮を剥かないまま水に放り込み、火に掛ける。火に掛けるついでに卵とニンジンも放り込んでおく。
 その間にスープを作る事にする。ポーク・ソテーを先に作って冷やしたのでは、セイバーも納得しないし俺も勿体無いと思う。
 スープの材料はポテト・サラダに使う野菜を流用する。銀杏切りにしたニンジン、薄切りのタマネギはそのままで使えるから、ポテト・サラダに使う分より多めに下拵えする。ジャガイモをスープに入れても良いけど、流石にポテト・サラダがあるから止めておく。
 流用した材料に加え、適当な大きさに切ったキャベツとベーコン、更に薄切りにした生しいたけを入れ、固形コンソメ・スープの素を水に溶き、入れて煮る。これで後は塩コショウで味を整えれば、スープは出来あがり。まあ、材料が柔らかくなるまで火に掛けておく必要があるけど。
 両方の調理が終わる間に、ポーク・ソテーの下拵えをする。豚肉の脂と肉の間にある筋を切り、塩コショウを適量振ってから小麦粉を万偏無く塗す。これで下準備完了。だけど、コンロはまだ空かない。菜箸で突ついてもジャガイモはまだ固いし、スープは煮えてすらいない。ニンジンはこの時点で柔らかくなったから取り除く。
 こうなったらポーク・ソテーは薄味に味付けして、ソースに手間を加えることにする。何がこうなったらなのかは分からないが、時間が余っているのにする事が無いと言うのが嫌なのだ。
 冷蔵庫からニンニクとショウガを取り出し、すりおろす。それを粒マスタードの中に突っ込み、醤油をホンの少し垂らす。これで一つ出来あがり。
 二つ目は大根おろしとポン酢の簡単なソース――と言うよりは味付け、か。
 三つ目は今は出来ないから保留しておく。
 ソースを作っていた間にジャガイモが茹で上がった。お湯を捨て熱気に苦労しながらジャガイモの皮を剥くと、ボウルに移してそれをポテト・マッシャーで粗めに潰す。ポテト・サラダはジャガイモの触感が残っているから味しいのだから。
 潰したジャガイモに、固茹でになったゆで卵を同じくポテト・マッシャーで潰したものを入れ、茹でられたニンジン、オニオン・スライス、キュウリ、ハムを更に突っ込み、マヨネーズを入れて混ぜる。本来ならばマヨネーズも自家製が良いのだろうけど、新鮮な卵を手に入れにくし、何よりマヨネーズを美味しく作るのは結構難しいのだ。だから仕方なく市販品を使っている。
 混ぜ合わせたら、ポテト・サラダの出来あがり。出来立ては暖かいから優しい味がするのだけど、まだ食べるわけにはいかない。
 ポテト・サラダを仕上げている間にスープの具材も柔らかくなったみたいで、一度味見をしてから塩コショウで味を整え、完成。これでコンロが空いた。
 フライパンにバターを敷き、強火で良く熱してから下拵えした豚肉を放り込んだ。フライパンを動かしながら焼き目をつけ、キレイな色になったら弱火にしてひっくり返し、ゆっくりと火を通していく。火が通ったら再度強火に戻し、ウィスキーを少し入れ、火をつけてアルコールを飛ばし、焼き色をつけたら出来あがり。さて、三つ目のソースはここから作る。豚肉のエキス等が詰まったフライパンに醤油と鷹の爪を入れ、僅かに煮詰めたところで鷹の爪を取り出す。皿にそれを煮詰めれば、出来あがり。
 食事の用意を終えて、テーブルに料理を並べてから隣の工房に遠坂とセイバーを呼びに行く。セイバーは最近本を漁るように読んでいる。それ故、剣の鍛錬が無い時や、暇な時は遠坂の工房に籠っている。何でも、本の楽しみに気付いたとか。まあ、剣と王様の二つだったセイバーには良い事だ。
 工房のドアを数度ノックしてから、返事が返ってきたのを確認して用件だけを伝えるとすぐに戻る。そういえば出すのを忘れていたポテト・サラダの取り皿を食器棚から出し、テーブルに並べる。
 一センチほどの間隔に切ったバゲットをバスケットに入れ、テーブルに置く。これで準備完了。
 呼びに行ってから一分とせずにセイバーと遠坂は戻ってきた。
 遠坂は少し疲れた表情をしていて、目の下辺りに隈が出来ている。俺が行った辺りからずっと籠りっぱなしだったのかもしれない。
 後で野菜ジュースでも作った方が良いかのだろうか。
「へえ。普通のポーク・ソテーじゃなくて、シンプルなままの状態と後で味付けで変化ね。考えたじゃない」
「シロウの料理は美味しいので、どれを使ったら良いか迷う。贅沢な悩みとはこう言う事ですか」
 セイバーは喜色満面と言う表情をして、ほぼ素焼きに近いポーク・ソテーを見ている。
「じゃあ、冷めない内に食べようか」
 全員で「いただきます」と言い、食べ始めた。
 まず、ポテト・サラダを皿に食べれそうな分取り、フォークで口に入れる。
 うん、マヨネーズも多過ぎず少な過ぎずだし、ジャガイモも粗めだから触感が残ってて美味しい。全体的に柔らかい中でのキュウリの存在感も有るし、良い出来だ。
 スープを一口啜る。うん、これも悪くない。ベーコンから味が出てるし、野菜からも味が出て、代わりにスープが染みこんでいて美味しい。
 さて、最後にメインに手を掛ける。ポーク・ソテーをナイフで切り、まずは粒マスタードとニンニク、ショウガのソースで食べてみる。……あまり美味しいとは言えない。ニンニクとショウガはすらないで、微塵切りで炒めてから粒マスタードに入れた方が良かっただろう。まあ、教訓として味を噛み締める。
 次は少し沈んだ気分を持ちなおす為に、まず失敗は無い大根おろしを切ったポーク・ソテーに乗せる。うん、さっぱりしていて美味しい。紫蘇の葉を刻んで入れても良いのだろうけど、生憎と売っていなかったから入れる事は出来なかった。
 最後に煮詰めた豚肉のエキスと醤油で作ったソースを掛け、口に運ぶ。――うん。エキスは濃厚だし、鷹の爪が少し辛味を出していて美味しい。バターのまろやかさと醤油のしょっぱさも良いし、ソースの中では一番の出来だろう。
 セイバーと遠坂も三つ目のソースを一番使っている。で、粒マスタードとニンニク、ショウガのソースは残り気味。
「悪い、一つ失敗したな」
「いえ、悪くは無いのですが、この醤油ベースのソースが素晴らしいので、落差があるのでしょう」
「そうね。ちょっと何時もの士郎らしくないかな、とは思うけど、悪くは無いわよ」
 二人の慰めのような言葉が少し嬉しくて哀しかったけど、セイバーがソースを全部使い切ってくれたので、純粋に教訓としておく事にする。反省はするけど後悔はしない。遠坂式の成長術で一歩前に進む事にした。

 夕食も食べ終え、後は鍛錬して風呂に入り、寝るだけなんだけど――何故か遠坂がこっちを睨んでくる。ソースが気に入らなかったんだろうか。いや、遠坂は何時も通り眼を輝かせて真剣に食べていたし、それは無いだろう。
 なら、何か。一通り考えてみたけど、思いつかない。
「えーと、遠坂? なんで俺を睨むのさ」
 分からない事はすぐに疑問に出してみる。
「……士郎、ちょっと寄りなさい」
 まるで蛇に睨まれた蛙のような心境で、逆らわずに遠坂に近づく。
 近づくと、睨んでいた眼を俺から逸らし、何かを小声で呟き、決心したような顔で逸らした眼を戻す。
「莫迦、善くやった」
 ――意味が分からない。
 何が『莫迦』で何が『善くやった』なのか、何故子供を不器用に褒めるみたいに頭を撫でられているのかも。
 ただ、遠坂が怒っていて、同時に俺を褒めていると言う事だけは分かったから、
「ありがとう、ごめん」
 とだけ言っておいた。

 一日が終わる頃になって、ようやく痛みが滲み出した。中から外に這い出るような痛みは胸から腹に掛けて在り、その存在を五月蝿いぐらいに喚いて主張する。
 声が震えるほどの痛みを噛み殺して、痛みに耐える。
「は――、――づ――っ」
 痛みは噛み殺す。それが出来ない訳がない。だから、閉じる。
 意識も痛みも身体も思考も行動原理、存在起源、魔術回路さえ閉じて閉じて閉じて、停止したように眠る。眠れ。
 そうすればまた何でも無い日々が有るのだから、衛宮士郎は内側に閉じていく。まるでロボットかTVのように、行動する為の意識のスウィッチを押して、ONからOFFに切り換えた。
 夢を見るなら今日の夢が良い。今日は特別楽しかったから。



London time's
closed



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