赤く、赤く。
 それは、何処までも赤い。
 広がっては行けない。これ以上、広げてはいけない。
 その為に俺は――衛宮士郎は居るのだから。



深く、静かに潜行せよ



 嘘だ、と思った。いや、思いたかった。けど何度見ても、見直してもそれは同じ。赤い。
 何故、なんて疑問が浮かぶが、答えは明瞭だ。明瞭過ぎて目を背けたいのだが、そうもいかない。しっかりと見なければいけない。
 それは紛れも無く現実であり、事実であり、真実、赤かった。
「嘘、だろ」
 知らず、声が漏れていた。歯の間からか、口が開いていたか。ただ、声が出ていた。
 認めなければいけないだろう。赤色のこれは、本当なのだ。
 また、一枚。薄い紙一枚に俺は滅多打ちにされている。が、今度は英語のテストではない。単なる大学ノートの一ページ。そしてそれに書かれた数字。
 つまり、赤字なのだ。計算して出された数字を丁寧に三色ボール・ペンの赤で書き込むと、大学ノートを閉じた。
「どうしよう」
 生活費が足りないわけじゃない。遠坂が時計塔から研究費と言う題目で貰った金額から、三人が暮らすのに問題無いぐらいは分けられている。
 正直な話、俺は働いてなかった。いわゆるヒモだったのだ、情けない事ながら。ロンドンに来てから一ヶ月も無職――遠坂の弟子と言う事で、時計塔の学生と言う扱いではあるが――であると言うのも情けない事極まりない。
 時間が無いと言うわけではない。勉強も有るし通学する事もあるが、時間がまるで無いわけじゃない。なら、するべき事は決まっている。
 衛宮士郎は、拙い英語を駆使しながら職を探すのだ。

 今日は遠坂とセイバーも居ないし、職を探すチャンスだ。一日中探す為にサンドウィッチを作り、それを持って外出する。
 空は相変わらず曇り。この一ヶ月で晴れた日は片手の指の数ほども無い。今日くらい元気付けに晴れても良いんじゃないかと思ったけど、現実的には晴れよりも曇りの方が歩き回るには適しているのだ。まあ、それなりに元気付けてくれてるんだろうと自己完結して歩き回る。
 最初は定番のファスト・フードのアルバイトを探す。とは言ったものの、こっちに来て初日以外は自炊してたからファスト・フードの事なんて殆ど知らない。せいぜいヒースロー空港にあったマクドナルドや、街中に有るプレタマンジェ、それにこっちでは定番らしいフィッシュ・アンド・チップスぐらいだ。 
 そう言えば有名らしいフィッシュ・アンド・チップスは一度も食べた事が無いけど、正直、一ヶ月前のレストランの料理が忘れられなくて食べようと思う気になれない。
 トラウマと言うほど酷くは無いけど、それでも食べる気を十分に失くすぐらいの味だった。まあ、ファスト・フード店でバイトするなら一度はその店の売り物を食べないといけないだろうが、昼食は既に持ってきている。昼食と食べた上で食べれるほど、フィッシュ・アンド・チップスのヴォリュームは少なくない。
 唯一期待出来るだろうプレタマンジェも、食べる物がかぶっているし、何より高いのだ。サンドウィッチだけで三ポンドはする。ヴォリュームが有って対比で考えれば安いと言う人も居るが、現状では節約出来るに越した事は無い。
 なんて目的とは違う事を考え込みながら街を歩いてファスト・フード店を回るが、どこもアルバイトの募集はしていない。
 困った。時給が安かろうとアルバイトの募集があるだろうと思っていた俺は、高く厚いと気づかされたばかりの現実にまたもや打ちのめされた。
 ファスト・フード店には意外と需要が少ないと気づき、普通の店を探す事にする。が、正社員の募集は有ってもアルバイトの募集はほとんど無く、有ったとしても俺じゃ出来ないような技術を持ってないと出来ない仕事だったりと、散々だった。
 職を探して二日目。こうなったらギリギリの橋を渡るしかない。大丈夫、以前も同じだったじゃないか。ならば、その身体は耐える事が出来る。つまり、肉体疲労でバレるかも、と敬遠していた力仕事も範囲に含めることにする。
 元々肉体労働をしていたのだ。それが無かった状態の方が可笑しかったのだと、俺は考えを改める。一年と二ヶ月で背は五センチ伸びた。身体はセイバーとの鍛錬で鍛えられている。なら、以前よりも耐えられるのが道理。如何に元々の体格が違おうと、鍛えてるのなら働ける。
 バレる事など無い。剣とは力の象徴。ならば、I am the bone of my sword(衛宮士郎は強く出来ている)、力仕事を数時間続けたぐらいで負けるほど柔じゃないのだと、証明してやる。
 結論から言えば、衛宮士郎は舞台に上がる事すらも出来無かった。つまり、人材は足りていて俺を雇う必要がない所ばかりなのだ。
 ふと気付いて、酷く焦る。俺が働ける所なんて無いんじゃないのか? そんな考えが頭に過ぎって、捨てる。そんな事は無いのだと言い聞かせて走る。歩く。探す。それしか俺に出来る事は無いのだから、やるべきだろうと。
 限界になっていた。俺の身体が、ではなく、誤魔化すのが。ここの所、毎日帰るのが遅い。それが遠坂とセイバーに怪しまれている可能性がある。或いは、遠坂なら既に手を打っていても可笑しくない。
 だから今日中になんとかしなければいけなかった。時間は勤務時間が短ければ良いけど、長くても良い。肉体労働から事務業までなんでもやってる。つまり、なんでも有りだ。
 今日は朝から出る。書置きと朝食を残し、昼食を持って両頬を叩いて気合を入れた。
 探す。探す。探す。西から東、北から南まで走り回る。走って、頼む。雇ってくれないかと頼んで、走り回る。
 どんよりと曇った空の上で日が昇り、日が停滞し、日が沈む。
 薄暗い。日が沈んだのかと、今更のように気付いて目を細める。ここからが勝負じゃないかと、朝のように頬を叩いて気合を入れる。野球だって九回裏が勝負所なのだ。まだアウトを二つ取られただけ、逆転出来無いわけじゃない。
 同調(トレース)開始(オン)。心の中で呟いて、強化する。衛宮士郎の心を強化して、歪っても直り、砕けても直る心にする。それはさながらフェンシングの試合用の剣。折れず歪まずなんて言わない、ただ、直るようにと。



† † †



 雨が降っていると思った。空は薄暗いけど雨なんて降っていないのに、雨が降っていると思った。
 雨に降られている彼は顔を上げる。それで納得した、彼には空から雨でも降っているように見えるのだと。そしてワタクシは彼を見て雨を降っていると思ったのだと。
 顔はまるで全てが終わったかのような情けなさで、その目はまるで捨てられた子犬のようで、拾われぬまま雨に射たれたようだった。
「どうしましたの、貴方」
 不思議だった。自分でも不自然だと思うぐらいの自然さで、気が付けばその子犬に声をかけていたのだ。
「いや、その――」
 流石に初対面の人間に全てを打ち明けられるほど、理性を無くしてはいないようだ。その点は好感が持てた。子犬ではなく、子猫だろうか、と。
 猫は疑り深い。そうだと言うのに、表面上に懐っこさを出す狡猾さも持っている。
 子犬、或いは子猫は戸惑って、もう会う事も無いだろう、なんて思ったのだろうか、話し始めた。
「日本に居て一ヶ月前にこっちに来たんですけど、ちょっと失敗しちゃってお金が無くなっちゃったんですよ。それで一週間仕事を探してたんですけど、何処にも仕事が無くて途方に暮れてたんです」
 今更気付いたのだけど、子犬は日本人らしい。多少拙いが、この国でもに通用する英語で呟くように言った。
 子犬の話を要約すると、お金が必要なのだと言う事だろう。良くある話だ、同情する事でもない。
 なら、何故ワタクシは気にかけるのだろう。ワタクシは困っている人を見捨てられない、なんて偽善者でもなんでもない。むしろ自分以外には殆ど関心が無いと言える人間だと言うのに、子犬を気にかけるのだろうか。
 思考して、理解した。単に気分転換がしたいだけなのだ。今日は嫌な事があったからその気分を変えたいだけ。それで良い。
「貴方、家事は出来ます?」
「え、あ、はい」
「得意なものはあります?」
「しいて言えば、料理です。イギリス料理(洋食)よりも和食が得意ですけど」
 子犬は怪訝な顔を隠せずにいるけど、質問された事に素直に答える。成る程、猫と言うほど健かではないみたいだ。だけど、素直な所は良い。
「仕事ならワタクシが紹介してさしあげましょうか?」
 子犬は驚いたような目を大きく開き、戸惑ったように分かりやすく表情を変化させてから言う。
「えと、どうして?」
 当然だろう。当然過ぎて笑ってしまいたくなるほど当然の質問。何故、会ったばかりの人間にそこまでするのか。
 本当の事を言ったところで、子犬は納得しないだろう。盲目的に人を信じれるほど子犬も馬鹿ではないのだ。
「貴方なら一生懸命働きそうですし、ワタクシに見返りが無いわけではありませんから」
 そう、見返りが無いわけではない。本来の動機は別に有るけど、これも本当。だからそれは理由になる。
「あ、えーと、じゃあお願い出来ますか?」
 子犬にしてみれば、ワタクシの申し出はなんと思えたのだろうか。子犬がオーケイしていると云うのに、そんな無駄なことを考える。
 仲介料が高そうだなんて思っただろうか、それとも溺れている所に来た藁だと思っただろうか。とにかく、出会ったばかりのワタクシを頼るなんて、余程切羽詰っているのだろう。
「分かりました。では、名前を」
「衛宮士郎です」
「エミヤ、ね。ワタクシはルヴィアゼリッタ・エーデルフェルト。貴方の雇い主になりますわ」
 子犬――エミヤはまた少し目を開き、口を玩具のように開閉させる。仕事の紹介とは言ったけど、ワタクシが雇い主とは思わなかったのだろう。
「その、よろしくお願いします。ミズ・エーデルフェルト」
 その日、ワタクシは雨に濡れた子犬(エミヤ)を拾い、飼い(雇い)主になった。



† † †



 逆転サヨナラ満塁ホームランなんて本当に有るんだと、自分で信じていたのに夢みたいだなんてバカな事思った後、「明日からここに来なさい」と言われて渡されたカードを見ると、シンプルな線で作られた地図と住所がその下に記されていた。そこが働く場所なのだろう。それは俺にとって単なる紙ではなく、宝の地図と同等の価値が有った。
 方法はともかく、これで職に着けた俺は上機嫌で帰宅する。少し古い外装、少し古い内装。だけど内容は立派。遠坂は二部屋契約していて、一つは工房、一つは俺たちの生活区域として利用している。一部屋は意外と広く、三人で暮らすのに問題は無い。
 ドアを開けて中に入り、何時もより少し大きな声で「ただいま」と言う。すぐに二つの「おかえり」と言う声が帰ってきて、靴を脱いで洗面所で手を洗い、うがいをしてからリヴィングに入る。
 時計は短針が七を指し、長針が五と六のちょうど間を指している。
「悪い。すぐ夕飯作るから」
 そう言って日本から持ってきた愛用のエプロンを付け、冷蔵庫の中を覗く。中身と時間の関係で少し考え、早く出来るものにする事にした。テーブルの置かれた皿にたっぷりとクッキーがあったとは言え、ちゃんとした夕食を食べたいはずだし、何よりクッキーだけじゃセイバーに足りそうにない。
 そんな事を考えて作った夕食は、セイバーには少し手抜きと思われたのか、少し眉をひそめられる程度に不評だった。
 遠坂はと言うと、何故かご機嫌で特に不満を表されることも無く、幸せそうに夕食を平らげた。

 翌日、来いと言われた時間の三〇分前に家を出る。住所は意外と近く、三〇分も前に出れば五分前ぐらいには着けるだろう距離だった。もちろん、歩いてだ。
 昼食は賄いだけど出ると言うので、ここ一週間持ち続けたサンドウィッチは作らなかった。
 予想した通りの五分前に着き、驚いた。雇うなんて言ってたから、凄いのかと思ったら予想以上だった。大きい、豪華。この二つしか言葉が出なくなるぐらい、凄かった。
 豪華と言っても、金属は全て金、なんて馬鹿な豪華さじゃなく、一見凄くシンプルに見えるのに、少し見ただけじゃ見えないような所や、注意しないと見えない所に小さくて精密な細工がしてあったりする。そんな所で設計を視て感心しているわけにもいかず、門にあるインターフォンを押す。
 すると数秒ほどして機械を通して変質してもキレイだと分かる声で、「はい」と反応があった。
「俺――じゃなくて、私、衛宮士郎と言って、今日から働かせていただく事になってるんですけど」
「エミヤさんですね、承っております。今、門を開けますので、少々お待ち下さい」
 数一〇秒ほどして、先ほどの声の持ち主だろう女性は来た。
 黒を基調とした長袖のしっかりとした作りの上着に、それに合わせる様に慎みを持ったくるぶしまで有る同じ黒のロング・スカート。それと正反対な白いフリルのエプロン。余計な装飾は無く、レース・フリルでもなければ、複数のフリルが重ねてあるわけでもない。髪はヘアピンとゴムで留められていて、その中からアピールするようにまたもシンプルなフリルの付いたカチューシャ。それを身に付けた彼女は、いわゆるメイドと呼ばれる職にあるはずだ。
「どうぞ、案内いたします」
 機械で変質していない彼女の声は小鳥が唄う様、なんてありきたりな表現が似合うほどだった。それを呆ける様に聞いてから、すぐさま「ありがとうございます」と返事をする。冷静沈着と言う表現が合う彼女の前で、慌てていたのが少し恥ずかしく思えた。
 ミズ・エーデルフェルトの部屋まで来る間に説明されたが、本来メイド(召使い)スチュワード(執事)は裏口と言うものがあり、そこから入るらしい。この大きな屋敷――と言うよりも洋館を裏に回るのは大変そうだけど、決まりなら仕方が無いだろう。明日からはそうする事にする。
「ルヴィアゼリッタ様、失礼してもよろしいでしょうか?」
 木製のドアをノックし、キレイな声を持つ彼女は言う。中から少し遅れて、昨日聞いた完璧なクイーンズ・イングリッシュの、許可を意味を持つ単語が返って来る。
 キレイな声の彼女は「失礼します」とミズ・エーデルフェルトは見ていないのに一礼し、ドアを開けて俺を先に中へ案内する。
「おはようございます。ミズ・エーデルフェルト」
「おはよう」
 彼女はトレード・マークとも言えるブロンドの縦ロールを揺らして振り返り、挨拶をした俺に挨拶を返してれた。
「早速ですけど、エミヤには掃除と調理をして頂きます。昼食は一二時四五分に頼みますわ」
 彼女はそう云って振り返ろうとし、止まって更に言う。
「後、ワタクシの事はルヴィアゼリッタでよろしいですわ。エーデルフェルトはこの家の者全員ですから、名前で呼びなさい」
 そう言い終わり、ミズ・エーデルフェルト――いや、ルヴィアゼリッタ様は向かっていた机に意識を戻した。
 俺とキレイな声の彼女はルヴィアゼリッタ様の部屋から出て、再び彼女に案内される。
 そこはクローゼットが幾つも列ぶ部屋で、それと大きな鏡以外は何も無い部屋だった。
「これからは同僚ですから、エミヤ、と呼ばさせて頂いても宜しいでしょうか?」
「あ、どうぞ。こちらこそ気がつかなくすいません」
 彼女は口元だけで微笑んで、クローゼットの一つの前に俺を行かせた。
「この中に執事の制服が入っています。反対側のクローゼットは女性用の制服のものですから、けして開けてはいけません」
 男物は右、女物は左、と脳内に深く刻みつけ、覚える。
「それから、私は一応メイド・チーフをやらせて頂いていますので、以後チーフと呼んでいただければ」
「分かりました、チーフ。これからよろしくお願いします」
 チーフはもう一度口元だけで微笑み、俺が着替えをする為に部屋から出ていった。
 おれはクローゼットの中からタキシードと呼ばれる物を取りだし、今着ている服を変わりにハンガーにかけてタキシードを身に着けた。今までネクタイなんてした事が無かったから、妙に襟が締められていて違和感が有る。しかも、普通のネクタイではなく蝶ネクタイだ。今は巻く蝶ネクタイではなく、簡易的なホックで付けるネクタイも有るらしいが、エーデルフェルト家では巻くタイプを使うらしい。
 鏡の前でネクタイ、襟等が崩れていないかを確認して、部屋から出る。
 部屋の外にはチーフが居て、少し俺を見回してから「似合いますね」なんて言ってくれた。お世辞なんだろうけど、褒められて嬉しい。いきなりネクタイが曲がってる、なんて言われ無くて良かった。
「では今から掃除の際の注意と道具の場所を教えますので、ついて来て下さい」
 そう言って静かに歩き出し、説明するポイントで止まってはそこに何があるのか、どう言う場所なのかを説明してくれた。おかげで大体の事は分かり、掃除には支障なさそうだ。
 ルヴィアゼリッタ様が望んだ昼食の時間は一二時三〇分。その一時間ほど前に入れば用意も出来るだろうと言っていたから、それまでに掃除を大体片付けなければ行けないと言う事になるだろう。午後も時間はあるけど、そう長くはやっていられない。夕食の準備もあるし、なにより遅く帰るとセイバーをまた不機嫌にさせてしまうだろうから。
 掃除用具入れから取り出した箒で床を掃く。俺の担当は一階の全ての廊下。部屋をやるにはその部屋を把握しないといけないから、しばらくは廊下をやり続ける事になるだろう。
 廊下を掃き、ある程度ゴミがたまった所でチリトリを使い、ホコリやゴミの複合物をゴミ箱に入れ、時計を確認する。時刻は一一時二三分。良い時間だ。
 早速厨房に入り、そこの料理長に挨拶をする。料理長は三〇センチはあるだろうコック帽を頭に乗せ、本当に料理人? と訊きたくなるほど筋肉のついた身体を使用し、その前に並べられた材料が抵抗など無意味とばかりに下拵えされていく。
「おう、お前が今日から働くエミヤって奴か。よろしくな」
 大きな口を空けて大声で笑い、目尻と口端に深く刻まれた皺を更に深くして笑う。彫りが深く、髭にも白が混じっていると言うのに、料理長のその身体は二○台半ばの成人男性と腕相撲したって軽くテーブルに叩きつけるだろう。
「えーと、俺何をすれば良いですか?」
 見たところ、下拵えは済んでいる。本来なら下っ端の俺がするべき事なんだろうけど、料理長は何でも自分でしなければ済まない性質なんだろうか。
「そうだな、じゃあちょいと作ってみろ。それで何を任せるか決めるから」
 そう言って冷蔵庫の中を見せ、下拵えを終えた材料を脇においてまな板を空ける。正直に言おう、困った。短時間で上手く出来るものなんて少ない。もちろん、高品質な材料を使える事は嬉しいんだけど、それ以上に何を使おうかと言うのにも困る。
 ――決めた。手の込んだものじゃなくて、それがそのままで美味いと思える物にしよう。
「じゃあ、タラの塩焼きを作ります」
 そう云って冷蔵庫から切り身――と言っても、実際には半身ほどあるそれを取り出し、イギリス基準で考え、通常よりも大きく切り、クレイジィ・ソルトを上から偏り無く振り、大きく切った分を考慮に入れて焼いて料理長に出す。
 料理長は簡素なそれをナイフとフォークで切り分け、大きな口を空けて口に入れる。そして数度咀嚼し、飲み込んで笑った。
「質素っつーか、簡単だが美味い。そうだな、じゃ前菜と副菜作ってもらおうか」
 下っ端にはいきなりの待遇だと思ったけど、やれと言われたからにはやらないわけにはいかず、そしてやるからには下手な真似をするわけにはいかない。両頬を叩いて気合を入れ、前菜と副菜の作る予定のものとレシピを教えてもらい、作ることにした。
 昼食を作り終えるとそれをチーフとは別のメイドに運んでもらい、俺は使用人たち全員の賄いを作る。薄切りにした豚でポーク・ソテーを作り、それと新鮮なレタス、トマトでサンドウィッチを作る。ソースは野菜を切り刻み、レモンで爽やかさを加えたタルタル・ソース。少し簡単過ぎるかもしれないけど、味は悪くないはずだ。それだけの材料を使っているんだから。
 それだけでは足りないだろうから、ソテーしていた間に固茹でにした卵をフォークで粗めに潰し、多めに作っていたタルタル・ソースを流用してタマゴ・サンドを作る。ここ最近のせいなのか、手軽に作るとサンドウィッチを作ってしまうらしい。まあ、そこそこ好評だったからいいけど。
 昼食を終え、再度掃除に戻る。廊下を掃き終わったら窓を濡れ拭きし、乾拭きする。中々に大変だけど、キレイになっていくのは悪い気がしない。
 三時になると全員休憩になるらしく、メイドの一人がそう言って休憩室に行ってしまった。俺はもう少ししてから行くと言い、濡れ拭きした窓を全部乾拭きしてから休憩室に向かった。
 休憩室では幾つものフルーツとクリームのサンドウィッチやスコーンがあり、みんな紅茶を飲んでいる。現在イギリスではコーヒーが主に飲まれているらしいが、エーデルフェルトの屋敷ではそうでもないらしい。
 俺も紅茶を一つ貰う。ティ・カップの中にティ・パックを落とし、お湯をその中に注いだ。たんなる硬質のお湯が紅茶に変わるまでの間、スコーンを一つ取り、クロテッド・クリームをつけて食べる。うん、美味しい。
 ミルク・ポットの差し口に油が付くほど上等なクロテッド・クリームは濃厚で美味しい。スコーンも焼き立てなのかまだ温かくて、表面は音が鳴りそうな程なのに、中身はほんの僅か湿り気のある素晴らしいと言える触感。
 それを一つ食べ終えたところでお湯は紅色となり、香りが立つ。それにミルクも砂糖も入れず、レモンやオレンジも浮かべずに飲む。
 それだけで十分に美味しいと思える紅茶は、少し渋みの強いダージリン。本来ならミルクでも入れて飲むのが良いのだろうけど、俺はストレートで飲む方が合っているらしく、気分転換以外の時はストレートで飲む方が多い。
 もう一つスコーンを取り、今度はマーマレードで食べる。うん、柑橘系の香りは良いし、甘さもそれほどじゃなくて美味しい。
 あるのはフルーツ・サンドやスコーンばかりかと思ったら、ちゃんと食事になるようなサンドウィッチもある。これは有名なアフタヌーン・ティではなく、ハイ・ティと言う食事色の強いものらしい。
 多少お腹にスコーンやらを詰めた後、チーフに聞いて自己紹介をし、みんなの名前やら担当区域を教えてもらった。メイドの一人が軽度のコックニー訛りだったけど、幸い俺が分かる程度でぎこちないながらも聞き取り、会話する事が出来た。
 執事の人はキレイなクイーンズ・イングリッシュを話している。執事のチーフは絵に描いたような執事と言う人で、少し外跳ねの灰色の髪型と、控えめに生えた髭がとても似合っている。
 彼はその姿に嵌る様に合う丁寧な言葉で、入り込み過ぎず引き過ぎず適度な距離を以て全員と接している。何と言うか、凄い人だ。
「いえいえ、そんな事は無駄に生きていれば自ずとついて来るものですよ」
 と謙遜したようにスチュワード・チーフは言うが、そんな事は無いと思う。とにかく、凄い人ほど主張したがらないのかもしれないなんて思い、勉強する日だった。
 ハイ・ティと会話を堪能した後、俺は掃除も終わっており、特にする事が無かった。メイド――と言うか給仕をする人は大変なんだろうけど、下っ端はやる事が終わってしまうと楽らしい。で、考えた。
 今から夕食の準備をすれば、結構早く帰れるんじゃないかと。夕食は煮込みの必要なものにすれば冷めて不味くなると言う事も無いし、味は染みて美味しくなるだろう。
 そう料理長に言うと、「それなら今日はお前が作れ」なんて任されてしまった。どれぐらい出来るか確かめる為なんだろうけど、メイン・ディッシュを下っ端に任せるのは了解した後だけど危険だと思った。
 洋食だと余りレパートリィが無いな、なんて悩んだけど、ロンドンに来る前に桜に美味しく作る方法を教えてもらったビーフ・シチューに決めた。
 教えてもらったレシピを思い出しながら巨大な冷蔵庫から食材を取りだし、大鍋を用意する。牛肉は表面だけ焼いて殆どレアの状態で香ばしさを出し、煮こむのが牛肉を美味しくするコツだったとかを思い出し、特製らしいドミグラス・ソースを使って仕上げていく。
 一時間程煮込んでから味見をして、驚いた。自分で作っておいてなんだけど、美味しい。それも凄く。特製ドミグラス・ソースが作用したのが大きいんだろうけど、高品質の材料を使っているのも結構違う原因だろう。
 一時間の時点で料理長にも味見してもらう事にした。
「む、美味いな。昼食の時のタラの粗朴さも悪くないけど、こりゃ違うな」
 やっぱり、特製ドミグラス・ソースと言うのは違うのだろう。和食に比べて得意とは言えなかった俺の洋食でもこんなに美味しいのだから。
 まあ、こっちで日本食の材料を買うと高いから洋食メインで作ってるし、ちょっとは腕上がってて欲しいけど。
 料理は材料と言うつもりは無いけど、材料が良いと出来あがるものの質が良くなるのは間違い無いみたいだ。
「悔しいけど、これならメイン張れる味だな」
 またお世辞だと分かっていたけど、嬉しかった。
 時計はもうそろそろ六時を差す。あじみをしてから三〇分ぐらい経っただろうか。それで、拙い。もうそろそろ帰らないと拙い時間なのだ。
「あの、待ってる人が居るんでそろそろ帰りたいんですけど、大丈夫ですかね」
 椅子に座って漫画を読んでいた料理長に聞いてみると、「そりゃ雇い主様しだいだろ」と言ってまた漫画に目を落とした。
 そりゃそうか。失礼だろうけど、早く帰れるようにルヴィアゼリッタ様に交渉してみるしかないか。
 料理長に煮込みを無理矢理変わってもらい、エプロンを外してルヴィアゼリッタ様の部屋まで来てノックをする。
「エミヤですけど、ちょっとお時間頂いてもよろしいでしょうか?」
 中から了承の声が聞こえて、「失礼します」と一礼してドアを開ける。言いにくい。酷く言いにくい。俺を助けてくれた人に言うのもなんだけど、言うしかないのだ。
「あの、実は訳がありまして遅くまで働けないんですけど、終わりは早めで宜しいでしょうか?」
「遅くまで、と言うのはどのぐらい?」
「今の六時ぐらいの時間です。遅くて六時三〇分には帰らないといけないんです。仕事をさせて頂いてる身なのは分かってしますけど、良かったらお願い出来ないでしょうか?」
 ルヴィアゼリッタ様は少し考えた後、オーケイを出してくれた。
「ただし、夕食の準備はしていきなさい。それと、今日の前菜と副菜、美味いしかったですわ」
「ありがとうございます」
 純粋に嬉しくて、子供っぽく笑ってしまったような気がした。俺の料理を認めてくれてるんだと分かって嬉しかったし、通用するのだと分かって少し自信が持てた気がした。笑った後に一礼をして、部屋から出た。
 けして走らないように、それでいて早く歩きクローゼットの部屋まで行き、ノックをする。メイドの人が着替えている場合、覗かない様にする為だとメイド・チーフに教えてもらった事は忘れていない。
 ノックの返答が無かったから入り、緊張しそうなタキシードからラフな何時もの恰好に着替える。やっぱり俺にはこっちの方が合ってると思い、恰好つかない自分に苦笑しながら部屋を出る。
 確か裏口はこっちだった、なんて廊下を歩きながら、裏口を見つけたところでメイド・チーフと会った。
「あら、もう帰るんですか?」
「はい。ルヴィアゼリッタ様から許可を得たので、何時も帰るのはこのぐらいの時間になると思います」
「そう、気をつけて帰ってくださいね」
「ありがとうございます。では、お先に失礼します」
 口元で微笑むメイド・チーフの笑みを貰い、地図を見直して帰り道を歩く。ちょっと堅苦しいけど、悪くない職場だと思う。メイドや執事のみんなは良い人だし、ルヴィアゼリッタ様も良い人だ。
 タキシードはもうちょっと似合う様に成長したいし、料理も上手くなりたいと思う。まあ、それまで俺が働けるか、の方が問題だけど。俺は楽しいけど適性が無いって事で辞めさせられる事もあるだろうし、頑張らなきゃいけない。
 両頬を軽く叩いて、気合を入れる。さて、さし当たっては今日は頑張ってセイバーを唸らせるぐらい美味い夕食を作ろうと思った。



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