車が走る。
 排気ガスや自然環境破壊も何のそのなんて恐い事を吐き捨てるような速度。流石に高速道路でも無い為一〇〇キロは出されていない。が、一度高速道路に入れば一〇〇キロぐらい余裕で出すのだろう。あの高い音階の無味乾燥な警告音をまるで無視して。
 それぐらいに俺たちは急いでいた。車の運転をするのは遠坂凛。少し前まで穂群原学園の優等生だったはずの彼女は、被っていた猫を堂々と剥ぎ捨て苛立たしげにアクセルを踏み、ハンドルを両手で握っている。
 その助手席には俺、衛宮士郎。背後には遠坂のサーヴァントであるセイバー、そしてもう一席には何故か居る穂群原学園弓道部元主将、美綴綾子。遠坂に聞くと、知り合いの中で唯一車の免許を持っているのが美綴だけだったらしい。つまり空港で車を乗り捨てると言うわけにもいかないから、頼むと言うことらしい。ごめん、美綴。遠坂は自分第一なんだ、知ってると思うけど。
 車は高速に突入して途端に警告音を発し始める。余りにも突然の加速はシート・ベルトをしている俺たちも、後ろへ叩きつけられるように席に張り付く。ごく軽い衝撃で、頭は思考状態に入る。
 起床時間には問題無かった、何時もと同じ五時三〇分。朝食を作るのも問題は無かった。桜も何時もと同じように来て、同じように朝食を作るのを手伝ってくれた。
 ならば何故俺たちはこんなに急いでいるのか? 
 ああ、思い出した。答えは簡単だった、フライト時間を間違えてたからだ――。



 ロンドンに飛ぶ一ヶ月前になって、漸く一応は過ごせるだろう、と言う遠坂のオーケイが出た。つまり、不恰好ながらもネイティヴで通じるようになったと言うことだろう。もちろん、これから先学ぶ事は山ほど以上にあるだろうけど。
 と言うよりも、十一ヶ月で変わると言う方が無茶な事を良く出来たなと思う。遠坂は教えるのが上手いんだと思う反面、良く頑張ったと俺を褒めて上げたい気分になるが、実際はそれどころではない。最低限通じるようになった会話の練度を上げる為に勉強は続くのだから。恐らく、向こうについてもしばらくはこのままだろう。
 それは問題ない。無い筈だけど、行動に支障が無いか――つまり、俺が遠坂の足を引っ張らないかと言うことが気になる。いや、既に十分引っ張っているが、それ以上に引っ張る事となると流石に気が退ける。とは言うものの、俺に出来るの事と言えば精一杯予習なりをして精々足への負担を減らすぐらいだ。
 だから精一杯やらなきゃいけないのだと気を引き締めなおして、ヘッドフォンから聞こえるラジオ番組を必死で理解しつつ、小声で英語のまま発音する。
 夜が十分に深ける前にラジオ番組が録音されているウォークマンの停止ボタンを押し、ヘッド・フォンと同じく机においてから土蔵に向かって魔術の鍛錬をした。
 夜は深けて、朝起きたら土蔵で寝ていて桜に怒られた。



 出発一日前、衛宮家にて。

「うっうっうっ、明日行っちゃうんだね、お姉ちゃん悲しいよぅ」
 藤ねえは黄色と黒のストライプ――と言うよりも虎模様のハンカチで、蛇口を捻ったように湧き出てくる涙を拭っている。が、その手は淀みなく動いて皿の上のおかずを口に運んでいる。悲しんでいるのは本当なのだろうが、その感情がどうにも薄く感じられるのはいかんともしがたい。
「とりあえず泣くか食べるかにしろ、藤ねえ。後、鼻かむならティッシュにしろよ」
 藤ねえは頷いて泣くのを止め、食べることに集中した。まあ、藤ねえらしいと言えばらしいか。料理も冷める前に食べて欲しいし。
 今日のメニューは塩鮭にじゃが芋と玉ねぎの味噌汁、茹でて裂いた鳥のささみと細切りのキュウリ、レタス、もやしのサラダ。サラダのドレッシングはしょうゆベースのノン・オイルで、あっさりとした味付けが好評だ。
 冷蔵庫の在庫は後三食分。今日の夜は一成、美綴、慎二も呼んで小さな食事会みたいなものを開くつもりだから、四食、下手したら五食分はあるかもしれない。はりきるのは久し振りだから楽しみだ。
 そんな事を思っている内にテーブルを囲んでいる全員の茶碗が空になっていた。
「お代り要る人ー」
 俺を除く全員の手が上がり、炊飯器は見事にその中身を減らした。

 夕方、キッチンはフル回転する。和食担当の俺は鶏の照り焼きを作ってから筑前煮を作る為に下拵えをし、鍋にサラダ油を引いてから鶏もも肉をさっと炒め取り出し、乱切りにしたゴボウ、ニンジン、タケノコ、レンコンと、茹でて臭みを取り手でちぎったコンニャクを炒める。ある程度炒めたら鶏肉を戻してまた少し炒める。うん、やっぱり肉が入ると香りが違う。
 材料に火が通ったらだし汁を入れ、しばらく煮立ててから火を弱め、酒、砂糖、醤油、みりんを今までの経験で培った勘――つまり、目分量で入れていく。
 これが、衛宮家の食卓の和食を預かる上で、桜にも遠坂にも出せない味になっている。
 で、味付けが終わったら後は煮て最後にさやえんどうを入れるぐらいだから、暇になる。だからと言って道場で運動している程はなれている訳にはいかないし、……まあ、勉強をするのが良いんだろうと、部屋に行ってから英語辞書とウォークマンを取り出して居間に持って来ると、桜がエプロンをしていた。
「桜は何作るんだ?」
「時間は余り無いんですけど、ビーフ・シチューにしようかと思ってます」
「そりゃ良い。藤ねえもセイバーも喜ぶな。俺も楽しみだけど」
「はい。期待してて下さいね? 精一杯頑張りますから」
 桜は笑顔を浮かべてから台所に入り、鼻歌を奏でながらリズミカルに包丁がまな板を叩く音を奏でる。何時になく機嫌が良いみたいで、料理の方もかなり良い出来になるだろうと推測する。
 それより勉強しないと、と意識を切り替える為に、ウォークマンの電源をオンにしてヘッドフォンを耳に当ててラジオの世界に入った。

 パーティを開く四〇分前に遠坂が、ここら辺にはあまり通らない車のエンジン音を引き連れてやってきて、「品数が少ない」とすぐさま言い、台所に入って中華鍋を振るった。
 まあ、確かに今思えばパーティって規模じゃなかったか、と思う。鶏の照り焼きと筑前煮以外に副菜があったとは言え、それだけで足りるほど成長期外ではないだろう。
 遠坂は二つ有るコンロを有効に使うように最初に下拵えを全て済まし、片方でワカメ・スープ作りつつ、もう片方で中華は速度。と言う言葉を体現するかのように炒め物を作っていった。
 結果出来たのはニラと卵の炒め物、青椒肉糸糸(チンジャオ・ロースー)、回鍋肉、麻婆豆腐、ワカメ・スープと、良く短時間で仕上げれるなーと思うばかりだ。
 それは良いとして、出来あがって見れば見事に肉を使ったものばかりだ。藤ねえとセイバー、それに普段肉類が無いと嘆いていた一成は喜ぶだろうけど。
 最後の皿がテーブルに運ばれると同時に美綴と一成が来て、パーティは開始までカウント・ダウンに入り――始まった。

 騒ぐに騒いだ。良くもまあ、出された料理を食べたと思う。特に一成は食い溜めとばかりに食っていたような気がする。しばらく肉類は出ないのかもしれない。
 が、それはまあ置いておいて、楽しかった。遠坂が暗躍したのか、何故か美綴が泊まる事になったけど。理由は分からないけど、意味の無い事をしない遠坂の事だ、何かあるのだろう。何しろ、無駄なことを心の贅肉と言う言葉で否定すらするのだから。
 今日は明日疲れるだろうと言う心配の為に、セイバーとの剣の鍛錬も遠坂との魔術の鍛錬も無なかった。と言うか美綴が居るから出来ないのだろう。
 とりあえずは、眠くなるまで勉強しよう。まあ、なんとかなるだろう、多分。
 結局、眠気が襲ってくるのは十一時を半時間も回った頃だった。



 ごく普通の朝だった。昨日使い過ぎて残った材料が僅かだったのと、桜と藤ねえが少し寂しそうにしていたのを除けば。
 俺も実際桜や藤ねえたちに長く会えなくなると寂しいのだが、現実は切羽詰まっている。恐らく、感傷に浸る暇があるなら鍛錬か勉強でもしないといけないだろう。
 藤ねえがプレーン・オムレツとトースト、サラダだけの料理に文句を漏らすのも、しばらく聞けないと思えばかわいいモンだ。残っていたビーフ・シチューを出したら嬉しそうに食べ始めたが。
 セイバーも一夜熟成されたビーフ・シチューを美味しそうに食べていたけど。
 出発する三時間弱前になって、桜が何か決意したように口を開いた。
「あの、先輩。その、先輩が居ない間、ここに住んでいても良いですか?」
「え? うん、まあ俺は良いけど」
「ありがとうございます。しっかり掃除して、キレイにしてますから!」
 まあ、無人よりはそこに人が住んでいた方が良いと思う。何より、嬉しいのは藤ねえじゃないかと思う。食糧危機問題が回避されたんだから。

 TVを見ながらくつろいでいた美綴が口を開いた。何と言うか、実に暇そうだ。
 弓道場があれば射を見せろなんて言われたんだろうけど、残念ながら衛宮家には道場はあってもその前に弓が付くような広い場所ではない。
「なあ、遠坂。フライトまであとどのぐらいだ?」
 遠坂はハンド・バッグから旅行券を出し、時間をチェックしてから――固まった。
「え。ちょ、士郎! 今何時!?」
「今? 九時二五分だけど」
「マズイ! 今すぐ出るわよ。士郎、セイバー、急いで!」
 何事かと思いながら、遠坂の分まで荷物を持って車が駐めてある場所まで走る。
 セイバーと美綴も突然の事に怪訝な目を向けるが、本当に切羽詰ったと云うような遠坂の状態から大人しく従った。
 藤ねえと桜は少し気を奪われたように戸惑ってから、外に出て行く俺たちを追いかけてきた。
「ごめん。桜、藤村先生。もう時間だから出るわ!」
 そう、遠坂一人が別れの挨拶を告げ、なんの事かも分からずに衛宮士郎は、『家族』に長い間に行って来ますをすることになった。

「遠坂。まさかアンタ、やらかした?」
 美綴は遠坂の後ろの席から身を乗り出して、遠坂の顔が映るミラーを眺めながら悪戯そうな笑みを浮かべて聞く。
「ええ、やらかしたわよ! どうやらこの癖は直らないみたい」
 どう言う事かと分からずに聞くと、
「出発時間間違えてたの、相当急がないと間に合わないわ!」
 とデンジャラスな解答をしてくれた。
 普通道路の五〇キロ制限道路で、遠坂はそんなの知った事じゃないとばかりに、空いている道路を八〇キロほどの速度で遠坂が運転する車は駆け抜ける。
 まあ、魔術師見習いで感情的な俺、ここ一番で失敗する遠坂、直情的なセイバーで、静かに行く方が難しいか。
 慌しいのも良いけど、な。



倫敦初日



 フライト時間ギリギリに俺たちは空港内に滑り込むように入り、チェックを受けて飛行機の中に入る。
 座る席は三つともエコノミィ・クラス。予定時間一二時間も座っていると腰が痛くなりそうな席だ。と言うか、確実に痛くなるだろう。まあ、実際はトイレに行ったりするから、丸々一二時間座っているわけじゃないのだが。
 遠坂は「仮にも時計塔と言う存在が、ケチ臭い」なんて愚痴を零しながら、機内サーヴィスのオレンジ・ジュースを飲み干した。
 セイバーは特に文句も言わず、席から窓の外を眺めている。幸い空は晴れていて、小さな窓からは青と白の混じった空が広がっているだろう。
 俺もそれに習うように、窓の外でも見て暇を潰す事にする。

 離陸して一時間程で機内食が出てきた。離陸時間が一〇時五五分だったから、機内食が出てきたのは一一時五五分。丁度昼食時で、燃費のあまり良くないセイバーは朝食以来何も食べてなかったらありがたいだろう。
 出てきたのはパンとサラダにフルーツと、メインにカレー。何時もそれの倍は少なくとも食べているセイバーには、物足りないと思うかもしれない。
 でも、味は悪くない。良く知らないけど、機内食としてなら良い方なんじゃないだろうか? 遠坂も悪くないと言った顔で食べている。
 セイバーは全部平らげた後、女性のキャビンアテンダントにお代わりを貰えないかと頼んでいた。その人は小柄なセイバーがお代わりを頼んだのに少し驚いていたが、笑顔で了解してすぐにお代わりを持ってきた。
 まあ、足りなかったら素直に言うのが正しいのだろう。俺もストレートで飲み干した紅茶のお代わりを貰い、今度はミルクを入れて飲んだ。
 機内食を食べ終えると、遠坂はエコノミィでも付いているモニターで映画が流れるから、それを見ろと言う。予想は着いた。つまり、英語で流れると云う事なのだろう。
 案の定、スピーカーからは英語が流れてくる。流れてくるのだが、正直分かりにくい。これがいわゆる英語の訛りと言う奴なのだろう。英語なのだが、まるで別物だ。
 遠坂が言うにはキレイな英語ばかりじゃないから、訛りにも慣れておいた方が良いだろう。と言う感じなのだろうが、最初から難易度が高い。聞いてから心の中で音読してからじゃないと、理解出来ない。
「ごめん、ちょっと分かりにくいわね」
「いや、まるで分からないわけじゃないけど、これがちょっとか?」
「これにぐらいで参ってたら、北部イングランドなんてルーン語かってぐらい訛ってるわよ」
 英語は難しいのだと、再度認識を改め直した機上の昼だった。

 飛行機で十二時間ほど運ばれ、日本の成田空港からロンドンのヒースロー空港に到着してまず最初にしたのは、背中を伸ばす事だった。予想した通り腰が痛くなっていて、伸ばすと楽になったけど疲れはあまり取れない。
 疲れと言えば入国審査だ。厳しいと言うか何と言うか、正直に言えばしつこい。殆ど疑っていると言えるほど入念だった。
 ようやく入国審査が終わると、次はバスで数一〇分移動し、時計塔に行くと言う。さっき立ち上ったばかりなのに、すぐ座ると言うのも新鮮な経験かもしれない。と前向きにでも考えなきゃ、やってられないかもしれない。
 時計塔と言ってもあのビッグ・ベンではないらしく、現在、国会議事堂として機能している建物に由来する名称らしい。つまり、時計塔とは魔術協会本部の通称であるらしい。
 遠坂に「時計塔ってビッグ・ベンの事か?」なんて訊いた時、呆れたような顔で「そうだとして、国会議事堂が魔術協会本部なわけ? どうやって使用するのよ、バカ」と言われた事が酷く脳裏にこびり付いている。俺も良く考えれば分かるだろうに、あの時の俺はバカと言う他に無かった。その当時はそんなに呆れなくても良いじゃないか、と思ったものだが。
 赤い二階建ての名物バスが去って行くのを見届けながら、俺たちは歩く。
 意識が違うのか、閉鎖的で壁で家を隠そうとする日本と違い、見る人を楽しませるようなデザインをしている建造物の数々は、散歩しているだけで楽しめるのだろう。俺の手に枷をするようにある二つのキャリー・バッグが無ければ。
 セイバーは自分の分は自分で持っている。
 一つは俺の分、もう一つは遠坂の分のハード・キャリー。流石に持てとは言わないけど、もう少しゆっくり歩いて欲しいとは思う速度で、早歩きのような速度で歩くのは止めて欲しい。
 鍛錬が足りないのかもしれないけど、それにしても早い。と言うよりも、俺を忘れてるんじゃないかと思う速度だ。
「遠坂、もうちょっとゆっくり歩いてくれないか?」
「あ、ごめん。そう云えば荷物持たせてたのよね」
 そう言って遠坂とセイバーは歩く速度を落としてくれ、それだけで大分楽になり、俺も辺りを見まわす余裕ぐらいが出来た。
 回りを見まわす。空は良い天気とは言えない曇り。とは言え、空より下は良い眺めだ。
 日本では目立っていたセイバーのブロンドも、ロンドンでは溶け込むほどに違和感が無い。むしろ遠坂の黒髪の方が回りから見れば浮いていると思われるのだろう。まあ、俺の髪の色も結構浮いていると思うが、髪を染める人も居るみたいだし、目立つと言うわけでもないだろう。手の中のキャリー・バッグを除けば。
 そんな事を暇潰しに考えていると、何やら違和感が前面から伝わってくる。そこを避けたいと思う意味不明な感情と、濃密な蜂蜜を嗅いだような感覚。
「遠坂、なんか違和感が無いか?」
「あるわよ。人払いの結界が張られてるもの。一般人ならこの場所を避けて通るか、引き返すわね」
 当たり前のように遠坂は言った。
「えーと、つまりは、人中に魔術協会本部の建物が建っている、と?」
「そう言う事。まあ、中にも仕掛けがしてあるんだろうけど、出来る事なら人が入ってくるのも避けたいから、人払いの結界があるのよ」
 つまり、中に入ってくると僅かでも魔術が存在するとバレる恐れがあるから、『そこ』が嫌な感じがする場所にしよう、って訳か。
 遠坂の洋館ほど露骨じゃないのは、意識を集めない為なんだろう。幽霊屋敷なんて呼ばれていたら、ホラー好きの人が集まってくるだろうし。
 なんて気軽に思ったのだが、それじゃ濃密な蜂蜜な匂いの意味が不明だったから後で遠坂に聞くと、バレない程度で強制暗示をかける結界を作るのは酷く難しいらしい。  もう少し歩いて遠坂が立ち止まったのは、ごく普通に在るように見える建造物。違和感はその建物から発されていて、先ほど感じたよりも強くなっている、と言う事を除けば。
「さっさと入りましょ。適当に済ませたら、今度は寄宿舎行かなきゃいけないんだから」
 そう言って遠坂はその建物の裏に回り、我が物顔で中に入っていく。セイバーもそれに続き、俺も違和感を我慢しながら入って行く。
 内装はまるで会社のようで、入った数メートル先に受付口があり、遠坂はそこで何やらを記入していた。
「これ書いて、そうじゃなきゃ入れないから」
 遠坂が記入した用紙の欄に、付き添いの欄を見つけてそこに記入する。セイバーは既に記入していたようで、俺が書いた一つ上の付き添いの欄に、セイバーの名前があった。
 書いた用紙を提出すると、受け付けの人が案内をしてくれた。案内されたのは奥にある場所で、その部屋の扉は深い色の、年季は入っているのにニスが塗られたような光を持っている。鈍光と言えば良いんだろうか、そんな光沢を持った扉だった。
 受け付けの女性は無味乾燥に扉を開き、遠坂と付き添いの俺たちをその中に招き入れた。
 中にはこれまた扉と同様、深い色の鈍光を灯している机が存在感を主張していて、それとセットの椅子に座っている男性は、その机の上で開いていた本を閉じ脇に片付け、案内をしてくれた女性に小声で何かを頼むと、女性は入ってきた扉とは別の扉の中へ入っていった。
「良く来てくれた、ミズ・トオサカ」
 低く乾いた声で男は遠坂を歓迎した。
 遠坂がPresidentと呼んだ男はつまる所、魔術協会本部の会長なのだろう。それにしては威厳があまり感じられないなんて、俺は暢気に思いながら遠坂と会長の会話を流すように聞いていた。
 男の英語は機上で聞いたような訛りが無く、キレイなものだった。
 とは言え、そのキレイな英語から分かる内容は単なる世間話で、「もうちょっと加工品が安くならないか」なんて言っていた。遠坂は少なくとも表面的にはつまらなそうに世間話に相槌を打ち、時間が勿体無いから早く話を進めろと訴えているように見えた。
 それを感じ取ったのか、男は世間話から話するべき事に口から零す言葉を移した。
 肝心な話はすぐに終わり、遠坂の入学と弟子としての俺の待遇なんかは三段飛ばしで階段を上ったように、あっさりと決まってしまった。
「ミズ・トオサカ。君の弟子に期待はしても良いのかな?」
「残念ながら、全く。魔術師の才能は欠片もありません」
 遠坂はweakと言って俺を紹介した。才能が無いのはその通りなのだが、キッパリと言われると落ち込むものがある。
 セイバーの方は紹介されるまでも無く知っているようで、一度興味深そうに見たが、その後は意図的に意識するのを避ける様にセイバーの方は見ていない。まあ、もの物珍しいものを見るような目は、失礼だと分かっているのだろう。
 その後も話は軽快に進み、もう終わろうかという頃にさっきの女の人が、ティ・カップをトレイに乗せて四つ持ってきた。香りから判断するに、紅茶だろう。
「どうぞ」
 彼女はトレイからソーサーにティ・カップとティ・スプーンを乗せたものを四つテーブルに置き、テーブルの中央にシュガー・ポットとミルク・ピッチャーを置く。
 ミルク・ティを作る場合は、先にミルクを入れておいた方が風味が害されないらしいのだけど、こうやって出す場合はしょうがないのだろう。まあ、俺はストレートで飲む方が好きだし、問題無いけど。
 紅茶を出された四人は女性に「ありがとう」と言ってから、ティ・カップを取って口に運ぶ。セイバー以外はそのまま口にしたが、セイバーは一つ砂糖を入れて飲んだ。鯛焼きとか好きだったし、甘い方が良いんだろう。
 紅茶は香りも良く、コクもあって美味しかった。渋みは余り無く、色が濃かったからからアッサム系だと思う。コクがあったのはイギリスの水が硬水だからだろう。
 その紅茶を飲み終える頃には話もすっかり終わり、後は帰るだけになっていた。
「では、失礼致します。寄宿舎の件、よろしくお願いします」
 そう言って遠坂は一度例をし、部屋から出ていった。俺とセイバーも礼をし、部屋から出る。何と言うか、会話は軽いのに堅苦しいと言う経験は初めてだった。それが感想と言えば感想だろう。
 遠坂は手の中に有る寄宿舎までの地図と格闘しながら歩いている。そんな中で俺は言った。
「なあ、遠坂。weakってよりはnerdじゃないか? 俺」
 遠坂は一瞬、訳分からないと言う顔をしてから、呆れたように言う。
「解剖希望なわけ? それならわたしが真っ先に手を上げるけど」
 ああ、成る程。不用意な発言は避けた方が利巧と言う事らしい。

「シロウ、お腹が減りました」
 寄宿舎で、セイバーは唐突とも言えるほどのタイミングで言った。
「ん、もうそんな時間か?」
 と言って何かを用意しようとしたが、まだ入寮当日で材料は無いしガスも来ていない事に気付いた。水と電気は有るのだが、生憎寄宿舎の調理システムはガス・コンロだ。
「えーと、ガスも来てないし、今日は外食にしないか?」
 そう遠坂に言うと、「仕方ないわね」と不本意極まりないと言った感じで同意してくれた。セイバーも少し残念そうに、「シロウの料理が良いのですが、仕方が無い」と言って納得した。
 俺たちは外に出ると適当なレストランを見つけてそこに入った。店員がメニューを運んでくると、それに目を通したのだが、高い。それ程高級店ではないのだが、普段日本に居て入るレストランよりも高値だ。
「じゃあ、わたしはロースト・ビーフとヨークシャー・プディングを」
「俺はトード・イン・ザ・ホールとトマト・スープで」
「私はロースト・ポークとコーニッシュ・パスティをお願いします」
 注文して来た物を一口食べて、思った。以前、雑だとセイバーは言っていたが、これは雑じゃなくて不味いんじゃないかと。
 そりゃあ「う」なんて呻くような声が三つ重なると、それが真実だと言っているようなものだ。
「迂闊でした。機内食が食べられたから、少しは改善されていると思ったのですが」
「そうね。今まで士郎の料理を毎日食べてたから、落差が酷いわ」
 イギリス人は料理に頓着しない――と言うか興味が無いとは聞いていたけど、それと料理の味は別物じゃないかと思う。
 とは言うものの、頼んだ以上は食べる。貧乏性なのかなんなのか、とりあえずは胃に詰めておく。セイバーも空腹だから仕方なくと言った感じで口に運んでいく。何時ものように頷いて食べはせず、ただ咀嚼をして次々と食べていく。
 遠坂も嫌々ながら、みたいな感じで口に運んでいる。
 食べ終えて、チップを渡して料金を支払ってから店を出て早々、セイバーが言う。
「シロウ、外食はいけません。簡素であっても、貴方の料理を希望する」
「そうねセイバーに同意だわ」
 俺も同意して、スーパーに寄って、サンドウィッチを作る為の材料を買って寄宿舎に帰った。



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